杉野先生のこと

 
筆者: 眞砂 睦

    私が日本学生海外移住連盟の十一期委員長を拝命したのは昭和三十九年のことでした。その頃には、年ごとの南米学生実習調査団の派遣や夏の合同合宿の実施、それに時々の講演会の開催など連盟の主だった活動がすでに軌道に乗っていました。ただ、毎年派遣していた南米学生実習調査団の渡航費の資金集めは相当な重荷であったことは事実で、役員諸兄にはずいぶん無理をお願いしました。それでも、経団連をはじめ主だった経済団体や企業は私たちの活動の趣旨をよく理解してくれており、ここ一番の際には心強い支援を頂きました。杉野先生のお力添えと、それまでの先輩役員諸氏のご尽力の賜物でした。

  いちばん印象に残っているのは夏の合宿です。私達の年は秋田県経営伝習農場に、北海道から沖縄まで全国四十七の加盟校から大勢の猛者が集まりました。いろんな専攻分野の学生たちが一緒になって炎天下の農作業に汗を流しました。農業を専攻する学生たちが作業をリードしてくれました。男子学生にまじって、多くの女子学生も居ました。彼女たちは力作業にもいやな顔をせず、男子学生そこのけの活躍でした。ただ、あまりの暑さに体調をくずした女子学生が事務室に運び込まれてきた時は肝を冷やしましたが、すぐ元気を回復されたので安堵しました。夜は車座になっての語らいが楽しみでした。それまで面識がなかった者同士が、互いに卒業後の人生計画を話し合ったり、大学生活の楽しさや苦労話を出し合ったり、濃密な時間を共にしました。合宿最後の夜はキャンプファイアーを囲んで、自慢の余興を出し合って、おおいに盛りあがりました。
 
 それにしてもあの合宿のあいだ、何のために夏の炎天下で苦しい力仕事をしているのか、という疑問が湧いてこなかったのは不思議でした。それどころか、作業に汗を流しているうちに、自分が生まれかわるようなすがすがしい充実した気持になれたのです。杉野先生が提唱される「理屈を学ぶ前に汗を流せ」という連盟精神とは、汗を流して得られたこの充実感なのかと一人合点したものです。
 
 その杉野先生に講演会でお会いした時でしたか、「君、学生運動の活動家と議論したことがありますか? 彼らは小難しい屁理屈を並べるが、私のところに連れていらっしゃい。私が彼らの理屈をすべて論破してあげますよ」とおっしゃった。当時は、日米安保条約改定反対運動終結後の学生運動の停滞期にあったものの、まだあちこちの大学で分派闘争が繰り返されていた頃です。青臭いイデロギーに縛られた頭でっかちの学生たちの騒々しい活動と、私たち学生移住連盟の「理屈を学ぶ前に汗を流せ」という理念とは、どうも対極に位置するな、ということは私も承知しておりました。杉野先生は日本の学生運動の草分け、「新人会」を生んだ東京大学法学部で学ばれたと聞きました。そんな背景をもっておられる先生は、戦後の学生運動家が唱える理屈など、とうの昔に乗り越えられていたのでしょう。薄っぺらな左翼理論など問題にしておられなかった。
 
 あの時先生から思わぬひと言を頂いて以来、私は先生がどのような勉強とご体験を積み重ねられて、学生を鍛錬するためのあの理念を確立されたのか、ひいてはどういう狙いで「農業拓殖学」という新しい学問を体系付けられたのか、いつかゆっくりお話を伺いたいと思っていました。それになによりも、杉野先生の「農業拓殖学」の講義を聞かせてもらいたいと思っていました。先生の講義を聞けば、どういうわけで私たち連盟の精神的支柱となっていた「WORK BEFORE STUDY」を提唱されるにいたったのか、その解答が得られるのではないか。汗を流すことを通して若者を鍛えることと農業拓殖とは、根っこのところでしっかり結びついているに違いない、そう思ったのです。ところが任期を終えて私たちが連盟の役員を退いて間もなく、講義を聞かせて頂く機会がないまま、先生は逝ってしまわれた。
 
 あれから半世紀近くになりました。炎天下の合宿で汗を流した猛者たちが世界のあちこちで、今も汗を流しながら大活躍をされています。杉野先生は「千の風」となって、あのいたずら小僧のようなキラキラ光る目で、高い空から教え子たちを見守ってくれているに違いありません。 

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