ボストンサプライズ

                             大島 幸夫

締めくくりは、ザ・マラソン――。
かねてより、わがランニング人生のラスト・ランは、こうと、決めていた。
ニューヨークシティマラソン、ロンドンマラソン、ベルリンマラソン、シカゴマラソン、パリマラソン、バンクーバーマラソン、東京マラソン……。世界に開催都市の名前を冠して呼ばれる有名マラソン大会は、あまたあるけれど、ボストンマラソンに限っては、都市名が省かれる。定冠詞だけが付いて、ただ単にザ・マラソン。これで通じる。マラソンそのもの。それだけ、ボストンマラソンは他の都市マラソンとは別格のマラソン大会なのである。
周知のごとく、その原点は、第1回オリンピックのアテネ大会で地元ギリシャのルイス選手によるドラマティックなマラソン優勝シーンを目の当たりにした、ボストン市長の感動にまで溯る。アテネ五輪の翌年、市長の肝入りでいち早く開催されてから今に続くボストンマラソンは、オリンピックに次いで古いマラソン大会であり、世界最古の市民マラソンという点でも、まさに別格の伝統と気品を誇る大会というわけだ。
ちなみに、ボストンは、街の空気が英国以上に英国的と言われる都市でありながら、全米4大スポーツはベースボールMLBのレッドソックス、アメリカンフッボールNFLのペイトリオッツ、バスケットボールNBAのセルティックス、アイスホッケーNHLのブルーインズと、すべての人気スポーツごとにプロチームが存在して、それぞれに地元ボストニアンの熱狂的な期待と愛着を集めている。
こうした質も密度も高い市民のスポーツマインドを、なかんずく、盛り上げるのが、ボストンマラソンであって、アメリカ独立の原点を忘れまい、と毎年4月、ボストンの祝日である愛国者の日に開催される。その熱気に滲むのは、昔ながらのアマチュアリズムの香気といっていい。

理不尽なテロに襲われたのは、5年前の大会だったが、以後、大会はテロリズムに決して負けない強さ、いや、「勁(つよ)さ」を希求して、ザ・マラソンのスポーツ文化度は、よりレベルアップしている。
今春、テロ事件に関連して公開されたボストンマラソン映画のタイトルも「ボストンストロング」であった。

さて、前置きの長広舌は措くとして、ぼくにとっても、ボストンマラソンは別格のザ・マラソンにほかならない。


あれは、もう、32年も前だったか、48歳の春、まだ外国のマラソン大会を走る日本人の市民ランナーが極めて少なかった時代に、第90回記念大会のボストンマラソンに勇躍参加した。これが自身、初体験の海外マラソンであった。
今にして思えば、わが脚力がスピードの天井を打つ手前だったころのレースで、このボストンでの完走タイムは、サブスリー(フルマラソンを3時間以内で完走)目前の3時間4分47秒だった。(翌年、筑波学園都市マラソンで2時間59分21秒とサブスリーの自己ベスト記録を更新。)欧米型の先進マラソン文化のまぶしさに、ぼくはいささか強烈なカルチャーショックを受け、以来、ランニング熱に心身ともに冒されるボストン教の信者となったのだった。
ザ・マラソンに再び参加したのは、10年後の第100回記念大会だった。すでにボストンならではの自由なマラソン文化の洗礼を受けていたぼくは、身体障害の部位も種類も問わずに、あらゆる障害者とランニングの楽しさを共有する国際組織、「アキレスインターナショナル」の日本支部を自ら立ち上げていて、東京の代々木公園内のクラブ練習会でよく伴走する関係にあった全盲走者のYさんと一緒に太平洋を越えた。
アキレスのニューヨーク本部を介してボストン市民の会員を紹介され、その自宅に2人して民泊しながらの大会エントリーだったが、期せずしてぼくらはボストニアン一家の気さくなホスピタリティーと障害者にもやさしいユニバーサルな接待に迎えられるところとなった。
身に余る友情と善意に恵まれたこの民泊体験を経て、わがボストンへの人間的な愛着はいよいよ深まりもしたのだったが、3回目のザ・マラソン参加までには間があった。
ニューヨーク、ロンドン、ロサンジェルス、バンクーバー、ウイーン、パリ、ローマ、プラハ……と、欧米各都市を駆け巡ったぼくのマラソン・クロニクルは、年相応に変化と深化の厚みを増していったが、その間もずっと、遥かなボストンを慕う恋心のような郷愁は変わらなかった。
懐かしのボストンの街をもう一度走りたい。スタートのポプキントンの丘からまた駈け下りてみたい。
内なる野性の血に潜む帰巣本能よろしく、ザ・マラソン大会カムバックの願望に火が付いたのは、2016年4月、敬愛するメキシコ五輪の銀メダリスト、君原健二さんのボストン快走のホット・ニュースに接した時だった。
君原さんが25歳でボストンマラソンの優勝テープを切ってから半世紀。第120回記念大会に夫妻そろって招待された君原さんは、75歳にして4時間53分14秒で50年ぶりの大会完走を果たした、と新聞各紙は、大きく報じていた。
私ごとながら、君原さんとはいくつか、ランニングがらみの思い出がある。毎日新聞が主催する坂戸ハーフマラソンでは、ゲストランナーとして招待された君原さんに付いて走る提灯ランナーの列に伍して、15㎞地点までレースをご一緒したものだし、毎日新聞大阪本社主催のスポーツ文化シンポジューム「マラソンと日本人、マラソン一世紀の年に考える」でも同じシンポジストの席に並んだ仲にある。
君原さんのボストン招待完走が話題となった前年の2015年、ぼくは78歳にして自らのブンヤ初任地、信州で開かれた長野オリンピック記念マラソンを完走したのだが、そのフィニッシュ記録が4時間50分50秒だった。時系列も場所も異なるので単純比較はできないにしろ、ぼくは君原さんより3歳年長でありながらも、フルマラソンタイムは3分余り上回っていた、ということになる。
もとより、チャンピオンスポーツの栄光に輝くスターランナーの君原さんと市民スポーツの趣味に徹してきた老いぼれとでは、同じランナーではあっても、まるで、月とスッポンである。格が違う。どだい、世界も異なる。走力の比較なんぞ、不遜というか、不謹慎もいいところなのだが、仮にもザ・マラソンのロマンに少なからぬ憧憬を抱くランナーたる一員として、君原さんのボストンカムバック完走のニュースに<オレだって走れるかも>と、胸震えるほどにインスパイアされたことは紛れもない事実なのだ。
3度目のザ・マラソン目指して。ボストン回帰への想いが、和紙に清水が染み入るがごとく、日々の時間に広がった。
さりとて、想いだけで目標が近づいてくるわけではない。言うまでもないことだが、ランナーは、走ってこそ、弛まぬトレーニングを続けてこそのランナーなのである。
そんなこと分かってらあ。こりゃ、てめえに忍び寄る老いと脚力の残り火のせめぎ合いだな。
取り留めもない自問自答を繰り返しながら、ランニングライフは続いた。
実は、ボストンマラソンには参加ランナーがそれぞれの年齢に応じて課せられる、出場資格の条件とも言うべき持ちタイムシステムがある。
例えば、35歳までの壮年一般男子ならば、完走資格持ちタイムが3時間5 分未満。40歳ならば、3時間10分未満、45歳ならば、3時間15分未満となる。つまり、このシステムは、年齢が5歳刻みで上がるごとに条件タイムが5分ずつ緩和される。年齢が60歳を越えると、条件タイムの緩和の幅も相応に大きくなる。
エイジグループの最高齢は80歳で、その出走資格条件タイムは、大会前1年間のフルマラソン完走記録として、4時間55分以内と、えらくキツイ。傘寿とはいえ、狭き門より入れ、と言わんばかり。
この辺りの出場条件は、さすが、ザ・マラソンと謳われる大会ならではの厳しさと言っていいのかもしれないが、超高齢ランナーである当人にとっては、ハンパなタイムではない。どうにも、甘くないのだ。
もはや、若い時のように走り込む無理はできないが、時にはそこそこに無理をしないと、走力はずんずん非情な下降線を辿ってしまう。
急いては事をし損じる。急がば回れ。そんな箴言のエコーを遠く聴きつつ、焦るでもなく、休むでもなく。時宜に応じて,ほどほどの刺激ランをエンジョイする。地平線の先まで果てなく延びる銀色の道を淡々と行く。まるでジャーニーランの感じ。川の流れのように。と書けば、美空ひばりになってしまうけれど、こちら、ランニングのトレースは、情緒的な演歌のようにはいかないし、その起伏に予定調和なんてありえない。実に、日々の一寸先は、悲喜こもごもの想定外である。
正直なところ、ザ・マラソン復帰へのプライベートな道程は、サプライズの連続だった。


最初のサプライズは、2017年4月開催の長野オリンピック記念マラソンだった。
前述のように、わがブンヤ初任地で開かれたこの大会は、ぼく自身、市民マラソン化する前段の陸連大会、信濃毎日マラソンと称されていた当時から、何回となく出場した経験があって、2015年の出走では、好タイムをクリアしていた。俗に言って、相性がよかった。
だから、ぼくは、ここぞとばかり、いそいそと、大会に臨んだのだった。そう、齢80にして超高齢ランナーのボストン参加資格であるはずの記録、4時間55分という完走タイムをゲットするべく、号砲一発、スタートをきった。
十全のトレーニングを積んでいた。コンディショニングも快調だった。すべてがうまく進むかにみえたのだ。ただ、当日、お天とうさまのご機嫌を除いては。
この日の善光寺平は、桜満開の花日和ながら、昼前から、気温はウナギ上り。夏日前倒しのにわか炎暑が、ランナーの体力を容赦なく奪った。
結果、大会史上初めて完走率は八割を切るところとなり、2100人に上る記録的なリタイアが続出した。ぼくもその一人となって、終盤の関門であえなく進路を断たれた。

これで、ボストン復帰のためのオフィシャルな持ちタイム取得という当面の目標も、信濃路の風に散る桜花のごとく消え去ってしまった、かに思えたのだが、これもザ・マラソンの懐の深さというか、何人もの日本人優勝者を輩出した親日的な大会の側面というか、あらかじめ、限定数の出場ランナー枠を確保している日本の旅行社が存在して、そうした旅行社が催行するボストン・マラソン・ツアーに参加できれば、オフィシャルな持ちタイムに関係なく、本大会へのオープン参加が可能なのだ、という。
ぼくのようなザ・マラソン信者のランナーにとっては、まさしく、願ったり叶ったりの話と言っていい。早速、古い知己が営む旅行社のボストン・マラソン・ツアーに応募して、ぼくは晴れてボストン・チケットを取得するに至った。

長野マラソン・リタイアのショックを越えて、自分なりのトレーニングを再開、秋からは筋トレの専門コーチにも付いて、想いはボストンに飛ぶ日々が続いたのだったが……。


そこで、第2、第3のサプライズである。
10月初旬の某日。駒沢公園の筋トレジムでマシンの前に座ったらいいが、腹に力が入らない。どころか、下腹に痛みを感じ、ついには吐き気に襲われた。
コーチのアドバイスも上の空。あわただしく、救急受診して、腸閉塞と判明した。入院治療まる3週間。なんとか退院してから、徐々にランニングに復帰、通算5回目の東京マラソ出走にエントリーを済ませ、筋トレも再開した。
実は、2年前、軽い脳梗塞を発症したことがあり、東京マラソン出場予定ということもあって、行き付けの大学病院で受診したら、担当医から「これ以上のランニングは危険」と、これまた、青天の霹靂、な、な、なんと、ドクターストップを宣告された。
医師の判断は、脳のMRI画像にあった。説明されれば、なるほど、脳内の毛細血管に微小な血栓痕が画像で認められたのだが、画像の当人であるぼくに、何ら自覚症状はない。なのに、もう、走るな、とは?
走り続けたら、車いすだよ、とは?
もちろん、車いすはご免である。でも、ランニングはわが人生、いや、わが命そのもの。なにより、今はボストンに向けて走っている最中だというのに、なぜ、ドクター・ストップなのか。
頭の中は真っ白だった。なにはともあれ、つてを頼って、日本医師会の走友会、日医ジョガーズに所属する脳神経科の医師たちから、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンを聞き巡った。
各ドクターの意見は一様ではなかったが、受け手であるぼくが考え抜いての結論は、自己責任で脱水にケアしつつ、敢えて、ランを続行することだった。わが走路は、ザ・マラソンへの一本道に戻った。


そこで、第4のサプライズである。
 ボストンへ空路旅立つ前、ツアーの旅行社を通じて、ボストンマラソン当日の現地天気予報を調べたところ、4月16日は晴天で気温20度前後、朝夕肌寒いという。まずまずのレース日和といっていい。気をよくして直行便に搭乗したのだったが、ボストンの気象は気まぐれだ。到着するなり、再確認した空模様は「寒波襲来で当日は雪か雨」ときた。準備に準備を重ねてきた大会だというのに、これはまた、なんという天気のお出迎えか。
正直、落胆したが、天候だけは変えようがなく、どうなるものでもない。 ハラをくくって空を仰ぐばかりだった。
俗に、戻り冬というのだろうか、北方圏の寒波に覆われた曇り空から白い雪が舞い、大会前日はみぞれとなる異常気象。大会当日も朝から降りしきる氷雨に強風が吹き募る、まるで嵐のような荒天となった。

後日知ったところでは、ボストンマラソンの百年を超える史上最悪。アル・ゴアの環境異変レポート「不都合な真実」ではないけれど、地球温暖化の影響による狂乱気象が、ボストンで牙を剥いたのだ、という説もある。
第122回目を数える当のレースは、周知のように、川内優輝選手が瀬古利彦選手以来31年ぶり、日本人として9人目の優勝を飾った。川内選手は今年1月、マイナス17度という酷寒の気象を衝いて開催されたプレ・ボストン大会でも優勝しているツワモノ走者である。いかなる悪条件でも、喜々としてエンジョイするかのごとく、走りきってしまう、そのスーパーアスリートの膂力(りょりょく)には敬服の一語しかないのだが、こちら、寒さに弱いスローランナーの老いぼれ、川内選手が栄光のビクトリー・テープ目指して激走していたころは、まだコース序盤で、厳しい風雨に晒されていた。
今回のボストンマラソンにエントリーしたランナーは約3万5000人という。ぼくが初めてボストンを走った第90回記念大会のエントリーは、約4000人だったから、参加者のスケールは9倍近くに膨れたことになる。まさに隔世の感があるが、コースにも道幅にも、大きな変化はない。
ということは、スムーズな大会運営上、ウエイブ・スタートの導入は当然でもあって、ぼくのスタート順は、ウエイブ4の、さらにドンジリ近く。トップエリートの川内選手やアフリカ勢が午前10時にポプキントンの丘をスタートした時、ぼくは丘の上のウエイティングエリアにも立てずにいた。しかも、そこに立つこと自体にも、折からの雨でポプキントンの丘の通路が泥んこ道と化したために、ひどく難渋し、ようやく午前11時15分、トップから1時間15分も遅れて、スタートできたのだった。
 冷たい雨と風はいよいよ強くなっていたが、コースの出足は丘からの下り坂。坂なりに勢いづいて飛ばした。
悪天候にもかかわらず、沿道の熱心な応援が延々と賑々しかった、圧巻は大統領候補だったヒラリー・クリントンの母校というウエズリー・カレッジ付近を通過する際に浴びた女子大生軍団の大声援だった。
花束のトンネルでランナーを迎え、あるいは、「キスミー」とはしゃいでハグしてくる陽気なヤンキー娘たちの華やぎは、過去2回、快晴に恵まれた大会のボストン経験で、自身、懐かしく知るところであった。
しかし、さすがに、今回は異常な風雨のなかである。ボストン・マラソン名物の風景も湿ったかな、と思っていたら、違った。びしょ濡れのコース脇に、雨合羽姿の応援女子大生たちが、ずらっと並び、各自高々と掲げた白いボードにくっきり「KIS ME」と書かれた赤い文字がまぶしかった。ハイライトの洒脱と心意気は健在だったのだ。
スタートしてから2時間31分14秒、20㎞地点を越え、ほどなく中間点を2時間42分11秒で通過したが、雨は止まない。 どころか、強烈な風が容赦ないアゲンストに変わった。顔面に直撃の雨粒を浴びつつ、向かい風と闘っていたら、走路ボランティアのマイカーがさりげなく近づいてきて,車内から声が掛かった。
「大丈夫ですか。まだ走りますか」
「ええ、もう少し」
「OK。気を付けて走ってください」
このあたりの会話は阿吽の呼吸だ。日本国内の大会なら、おそらく、関門閉鎖の時間とかペースの遅れとかを理由に、スタッフがリタイアを強要してくるところだが、ボストンは、ランナーへのリスペクトが違う。無粋な関門なんてない。決してランニングの中断を強いることもない。まずもって、ランナー本位。本人の意志を聞き質してくる。何より、ランナー・ファーストなのである。
「もう、少し、前へ」
リトル・モア、アヘッド。簡潔な言葉に「走る意志」を託し、風雨を衝いて、なおも走り続けた。
かの有名な心臓破りの丘の手前の30㎞地点を越えただろうか。わがハートは、そう簡単にブレイクしないまでも、過酷な風雨と寒冷に晒され続けて、脳梗塞が再発する可能性がないとはいえなかった。それに、走り続けたとして、フィニッシュ・ゲイトが閉じる前に、ラインをぎりぎり駆け抜けるスピードの自信はなかった。加齢を言い訳にする気はさらさらなくても、ここは無理を重ねる場面ではなかった。
こちらの体調、気分を丁重に気遣いつつ、また近づいてきた走路監察ボランティアの紳士的な助言に従い、ぼくは臆することなく、スタッフ車に乗ったのだった。


そして、最後のサプライズへ。
運ばれた先は、救護テントだった。
マラソンコース上で、車に乗る前から、ぼくは寒さで震えていた。低体温症だった。
スタート時から着用していたビニール地のランニングウエアは、撥水も、防水も、てんで用をなさず、タイツからウールの下着まで冷水が染みていた。
ヨーロッパアルプスのマッターホルン、モンテローザ、ドムなどの名峰を登攀し、ヒマラヤ6000m級の高峰登頂も果たして、まあ、アルピニストの端くれと言ってもいいぼくは、当然ながら、過酷な気象に耐える登山ウエアの持ち主だった。防水、防寒に通気性も兼ねるゴアテックスの雨具だって所有していた。していたけれど、ボストンまで来て、ウエア備品の手薄さを嘆いたところで、後悔先に立たず。まさかの低体温症になるなんて、山男の意地も面目もあったモンじゃない。
ところが、敗残の濡れネズミを迎え入れたテントの面々は、テキパキと労を惜しまず、どこまでも優しかった。
あらかじめ、非常用の自家発電装置の備えがテント内にあってフル回転、応急の保温銀紙に巻かれたぼくは、温かなスープとケーキ、コーヒーに、温風マッサージと、ドクターと看護師を交えたチームプレーの救護ボランティアから至れり、尽くせりのねぎらいを受けた。
ひとまず、身体が温まって、落ち着きを取り戻すと、数多くのリタイアランナーを乗せたバスがやってきて、ぼくも同乗する形となった。高速道路経由でボストン市内のフィニッシュ地点まで運ばれたのち、再び親切なボランティアに誘導された大会組織の救護室のベットで、さらに念入りのマッサージを受けた。
滞在ホテルは2㎞も先にあり、タクシーは呼べないし、風雨がなおも激しかったから、どうして帰ったものやらと思案していたら、ボランティアの一人で、元レッドソックスに在籍して、攻守に活躍した好漢、デーモン選手に似た青年が「送って行くよ」と、どこからともなく、車いすを転がしてきて「さあ、乗って、乗って」と、遠慮するぼくをひょいと抱き上げるなり、チェアに腰かけさせてくれたうえ、雨具も兼ねた防寒銀紙で、ぐるり、身体を覆ってくれた。
降りしきる雨の中へ、さあ、出ようとした時だった。
先刻までぼくのベッド脇でボランティア作業の指揮をとっていた医療スタッフチーフとおぼしき、こちらは元レッドソックスのスラッガー、オルティス選手に似たひげ面の巨漢が、車いすに寄ってきて、ぼくの手をとり、「これ、われわれからのギフトだよ」
と、ずしり、なにやら硬いものを掌に置いてくれた。
なんだろうか?掌を開いてみたら、リボンテープ付きの完走メダルではないか。
吃驚して、首を振った。
「ぼくはフィニッシャーじゃないんだ。リタイアしたんだよ。完走メダルをもらう資格はありません」
メダルを返そうとすると、
オルティスはそのメダルを改めて、手ずからぼくの首に架けてくれ、破顔一笑した。
「ドント、ウオーリー。資格は十分あるさ」
「どうして?」
「だって、ユーはほとんど最高齢のアメージングな参加ランナーだし、歴史的な大荒れ大会に、新しいレジェンドを添えてくれたクリエイターの一人なのだから」
濡れたゼッケン番号から、当方の年齢も、3度目の大会参加であったことも、承知してくれていたのだった。
胸が熱くなった。完走メダルの「完」は敢走の「敢」に、そして、感謝感激の「感」にも通じていたのだ、と納得した。
大荒れの大会なればこそ、ザ・マラソンのすごい底力も、地元ボランティア市民のすばらしいサポートをはじめとした魅力の真髄も、肌身で知ることができたというものである。
そう、めったにない異常気象とガッチンコしたが故の展開だった。逆説的に思えば、なんと、ぼくは天気にツイテいたことだろうか。
数々のサプライズの果てに、図らずも待ってくれていた望外の至福。
ザ・マラソンへのわがプライベートな愛は、いよいよ膨れあがった。
これで、ラスト・マラソンの舞台もまた、1年先に延びたようである。
「ラスト」という英語の同音異義語には「最後」のほかにスペル違いで「錆び色」という語義もあるから、1年後は81歳のジジイ野郎、どこまで体力の錆落としができるのか、といった、これは難題でもあるのだけれど。 (2018.12.5掲載)

 

伴走の共生システム

 障害者ランニングの伴走を始めて、かれこれ20年を超えるだろうか。
 ぼくがかかわっているのは「アキレストラッククラブジャパン」といって、ニューヨークに本部を置くグローバルな非営利民間走友会の日本支部である。
 交通事故で片足を失ったニューヨーカーの一人が、義足でニューヨークシティマラソンを完走、その快挙を機に、障害者とボランティア健常者のランナーが集 まり、アキレストラッククラブが結成された。ちなみに、このクラブは、今や世界58カ国に支部がある国際組織だが、その日本支部はぼくが創設して、今年 16年目を迎え、その先進的な活動ぶりで昨年度のランナーズ団体賞を受賞している。

 このクラブの一つの特長は、あらゆる障害者への対応にある。障害者にかかわる団体活動と言うと、とかく、日本では障害の種類別に固まってしまう傾向があるのだが、ぼくらのクラブに障害種別の線引きは一切ない。
視覚障害、脳性まひ、肢体障害、知的障害、車いすなどさまざまな種類の障害者ランナーが、何の分け隔てもなく、それぞれの思いでクラブ活動の輪に加わる。 なかには目が見えず、耳も聞こえないといった重複障害者が伴走付きで走り、あるいは障害者手帳こそ持たなくても、例えば、がん治療の大きな手術をした後、 再起のために、と走る人もいる。

 当たり前のことだが、メンバーの走力にはばらつきがある。定例練習会(毎月第2と第4の日曜日午前10時から東京代々木公園。興味をお持ちの方はどう ぞ)で、1㎞の周回コースを1周か2周歩くだけという障害者がいる。車いすから降りてボランティアにバランス補助を受けながら、休み休み歩いて1周するの がやっとという障害者もいる。その一方で、伴走者泣かせ?のスピードを誇る障害者や100㎞のウルトラマラソンを完走する障害者がいるし、パラリンピック のマラソン金メダリストもいるといった具合だ。

 ぼくは勝手に考えているのだが、スポーツに親しむことは、障害、体力のあるなしにかかわらず、万人に公平な権利である。ほとんど人生の基本権といっても いい。ランニングなら、ランニングの基本的人権であって、だれかれ問わず、走る(歩く)楽しさを享受する資格を有している。
当の基本権を満たす条件としては、走力なんて二義的でしかない。大切なのは自由なスポーツマインドとチャレンジスピリットなのであって、人それぞれの立場、能力に応じて走り(歩き)、人生が豊かになれば、それでいい。

 近ごろ、ようやく人口に膾炙する言葉になったユニヴァーサルデザインにしても、障害、年齢、体型、人種、言語の違いを超えて、万人のために柔軟快適な公平利用をはかる考え方を核にしている。
 従来のバリアフリーという概念からさらに進んだこの発想は、日本でもすでに日用品、工業製品、建築、都市環境造形からファッションに至るまで、幅広く取 り入れられつつある。ファッションの例をあげれば、障害者や高齢者に着やすく、若い健常者とボーダーレスにおしゃれを楽しめる衣服が工夫されている。同じ コンセプトはランニングにも通じて、走る喜びに、障害、年齢の壁なんてあるはずもないのである。
 ところで、障害者ランナーの伴走についてだが、「何かいいことをしたい」と一念発起して、ぼくらの伴走仲間に入ってくる健常者ランナーがいる。「障害者のお役に立ちたいから」というのだ。

 しかし、この「いいこと」というのが実は曲者なのである。
ぼく自身にもよくある経験だが、自分がなじんでいる障害者伴走の話をすると、
「いいことしてますね」
 なんて言ってくれる人が多い。
まあ、ときに外交辞令の含みはあるにしても、「いいこと」というお褒めの言葉が、どうもこそばゆい。もとより、わるいことをしている気なんぞあるはずないのだが、さりとて大そうな善行を続けているつもりもない。本人の思いとしては

 <楽しいから続けている>  だけの話なのだ。

 ぼくが見るところ、結果的には、「障害者のために何かいいことを」という気持が強い人ほど、むしろ、ボランティア伴走から離れて行くのも早い。
 「いいこと志向」の動機づけは、それはそれで尊ぶべきかもしれないけれど、あまり善意の思い込みが強いと、えてして、障害者の感性とかみ合わない。ついには、当人も伴走で組んだ相手の障害者も、共々に疲れてしまう。
障害者とて生身の人間だから、お仕着せの善意が空回りしてしまうのは、当然と言えば、当然なのだろう。

 伴走といい、ボランティアといい、永く続けるには、まずは伴走を楽しむこと、好きになることである。
「クラブに入って、ずいぶん世界が広がりました」
 と喜んでくれる障害者ランナーが少なくない。ごく限られた内々の人間ばかりで固まっていた感性の窓が、外へ大きく開いた、ということなのだが、同じこと は健常者の伴走ボランティアにも言える。クラブでいろんな障害者と交流し、健常者の世界だけにいては開かない心の窓が開く。窓の外の人間的出会いがうれし くないはずはない。

 障害者であれ、健常者であれ、ランニングを愛する者同士、アクティブな汗の爽快感を共有する。肉体言語が通じ合う。レースの想い出話に花が咲き、新たなレースのチャレンジにも会話が弾む。
ボランティアの市民文化とユニヴァーサルデザインの共生システム。その組み合わせの深化から、伴走の楽しさもまた、いや増そうというものである。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 
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