ブラジル現代史をかけぬけた紀州人

                               眞砂 睦

 
 ブラジルの日系新聞「ニッケイ新聞」が、「大統領と日本移民の友情 松原家に伝わる安太郎伝」という連載記事を掲載しました。7月26日から始まる23回にも及ぶ大特集です。サンパウロ在住の友人がその連載記事の切り抜きを送ってくれました。
 松原安太郎は、みなべ町岩代出身の戦前移民で、成功した大農場主として時のブラジル大統領・ヴァルガスとの親交をとおして、戦後の日本人移住再開を実現した人物として皆様ご承知の通りです。「戦後移民の父」と呼ばれたあの伝説の人物です。
 今回の連載は松原家の親族に直接取材した内容をもとに、「ニッケイ新聞」が総力をあげて松原の波乱の人生をたどったもので、これまで知られていなかった生々しい事実も明るみにでました。松原の半生記については本会報ですでに皆様にお伝えしていますので、今回は「ニッケイ新聞」連載記事で紹介された史実の一端をお報せします:

*絶対的権力者ヴァルガスとの出会い
 成功した大農場主とはいえ、一介の移住者が「近代ブラジル建国の祖」と言われる超大物政治家と親交を結ぶにはそれなりの背景があるのは当然。およそ共通項がなかった2人を結び付けたのは松原農場の支配人をしていたアルキメデスという人物だった。
 当時ブラジルは、圧倒的な経済力を持つコーヒー農場主たち(「コーヒー貴族」と呼ばれた)が思うが儘に政治を牛耳っていた。その体制を崩そうと、ヴァルガスは担がれて1930年に無血革命を起こし大統領になる。アルキメデスは下部組織でヴァルガスの政治活動を支援していた。一方の松原は大戦中、統制品であったガソリンや小麦粉などをアルキメデスから横流しを受けていた縁で、戦後彼を農場支配人に据えたようだ。
 1930年以来大統領として権力をふるったヴァルガスだが終戦直後の1945年、民主化の動きに押されて大統領辞任のやむなきに至り、下野する。
取り巻きが雌伏中のヴァルガスを再度大統領に担ぎ出そうと躍起になっていた中、アルキメデスに大農場主・松原の名を知らされたヴァルガスが松原に接近、交友が始まる。
1950年の大統領選再出馬を決めたヴァルガスに、松原は巨額の選挙資金を提供した。選挙はヴァルガスが圧勝、大統領に帰り咲いた。選挙前のここぞという時にまとまった資金を出し、それが選挙を左右するような軍資金となったことは想像に難くない。
 今や盟友となった松原を訪ねるため、ヴァルガスがマスコミの追尾を振り払って松原農場内の専用空港に降り立ったのは、大統領就任後の1952年のことだった。
 こうして、大戦時の敵国人であった一介の日本人移民が、絶対権力者ヴァルガスの内懐に入り込んで、ブラジル政治の荒波に翻弄されていくことになる。

*ヴァルガスと運命を共にした移住事業
 選挙の際の恩義に応えて、ヴァルガスは松原に特別に4000家族の日本人移住再受入の枠を与えたことから、戦後移住が始まったのは周知のとおり。焼け野原のなかで600万人を超す引揚者を抱えて疲弊しきっていた日本は、移住再開の報に朝野をあげて喜んだが、個人として受けて立ったこの移住事業で松原は地獄を見ることになる。
 松原に与えられた入植地のうち、1953年に東北部・バイア州の「ウナ植民地」、1954年に中西部・南マットグロッソ州「松原植民地」に入植を始めるが、早々に問題が発生する。
 「松原植民地」は、連邦政府が約束していた道路整備をしていなかったため、移住者自身が原始林を拓いて20キロの導入道路を作らざるを得なかった。4か月かかった。その間の生活費や諸経費は松原が立て替えた。しかし、この入植地は気心の知れた和歌山県人が大半を占めていたこともあって、皆が団結して開拓設営作業をやり終えた。
 ところが、「ウナ植民地」に入植した38家族が、土地が傾斜しているうえにやせていることを理由に、生活補助金の増額と営農資金の支給を要求して、早々にストを起こし大使館に訴えた。さらに、入植作業に取りかからない前に早くも脱耕者が続出したため、現地官憲(移民局)が激怒、松原は賠償金(違約金)を請求された。その額は現在の貨幣価値に換算するとおよそ1億2千万円といわれる。
 この賠償金に加えて、移住者の生活救済のために松原が「ウナ植民地」と「松原植民地」の入植者に貸した支援金が、合わせて11億円を超していた。ほとんどが回収不能の自己資金である。さしもの松原も資金的に行き詰ってしまう。
 その最中、なんとヴァルガス大統領が軍部との確執から自殺に追い込まれてしまった。移住者が入植して1年、まさにこれからという時に、資金的に行き詰っていた松原は、頼みの後ろ盾をも失ったのである。松原個人としての移住事業はここで実質的に破綻した。

*引き継がれた「松原移民枠」
 ヴァルガス亡き後も松原の苦闘は続く。「ウナ植民地」の脱耕問題で移民局から突きつけられた賠償金、1億2千万円を支払わなければ「ヴァルガスが与えた日本からの移民枠を取り消す」と迫られたのだ。この賠償金請求の裏には、松原と大統領の関係を知る反ヴァルガス派の策動があったとの説もある。
「移民枠取消」を突き付けられた松原は1955年、なんとか半額を支払い、残り半額を半年間猶予してもらうことで、とりあえず「枠取消」は免れた。その足で松原は、時の君塚大使に「自分は大局的な見地から事態の悪化を防ぐため、身銭を切って処理しましたが、この先は外務省による解決をお願いします」と訴えた。
 結局、外務省が残り半分を負担して、「松原移民枠」は維持されることになった。そもそも入植地選定に際して、日本政府が農林省の専門家に調査をさせて、「土地は有望」とお墨付きを与えていた手前、資金支援を逃れるわけにいかなかったからである。
1955年の国会内閣委員会議事録には「政府の移民政策を、松原氏が負担することによって生じたマイナスが全て松原氏にかぶせられ、『4000家族のコンセッション』が取り消されるような情勢になったため、この賠償金の半額を政府が負担した」という政府答弁が記録されており、本来は日本政府がすべき移住事業を、松原が個人的な力で切り開き、金銭的負担をかぶってまで再開にこぎつけたことを高く評価している。その功績を讃えて政府は1956年、松原に「黄綬褒章」を贈った。
その後1960年に日伯の「政府間移住協定」が締結されるまでの間、「松原移民枠」は「民間による移住協定」として活用され、松原の後を継いだ(財)海外協会連合会が4806人をブラジルに送っている。
 松原が体をはって断行した移住事業は志半ばで頓挫したが、「松原移民枠」は「政府間移住協定」につながって、戦後6万人の日本人がブラジルに渡ることになったのだ。

 松原は1961年、病気療養中に故郷、紀州みなべ町で永眠した。ブラジル政治の激動に身を投じ、毀誉褒貶を味わいつくした人生だった。妻・マツは夫を看取った後、3人の息子が待つブラジルに戻り、93歳の天寿をまっとうした。
 3男のパウロ義和は戦前、旧制・県立第2中学(現・田辺高校)に留学、卒業しているが、「ニッケイ新聞」の今回の連載は、その3男・義和(故人)の妻・アダイール裕子さんから提供された情報や資料をもとにして、追加調査が加えられている。
 最後に、裕子さんが夫・義和から聞いた、ヴァルガス大統領と松原のやりとりをお報せして、本稿を締めくくりたい:
 1950年、大統領に帰り咲いたヴァルガスが松原に「君が私を助けてくれたように、今度は君の頼みを聞きたい」と申し出があった際、松原は次のように答えた。
「自分はもうなにも必要ない。和歌山県人を受け入れるための移民枠が欲しい。今、日本は戦後で生活が苦しい。自分がブラジルでもらったような『機会』を同胞に与えたい」。(了)  (2014.12.19掲載)
                          
                   

 

遠くの友人

                                     眞砂 睦

 

 8年ぶりにブラジルを訪れ、旧知の谷口史郎さんに会ってきた。史郎さんはみなべ町清川生まれ。1953年、13歳の時に家族とともに移住。ご尊父は清川村(当時)の村長をされていた。現職の村長が家族を連れて移住するというので、評判になった。
 一家は南マットグロッソ州ドラードス市近郊の原生林に入植。サンパウロ市から西に1500キロほども離れた奥地である。みなべ町岩代出身の戦前移住者、松原安太郎が設営した開拓地ということもあって、入植した69家族のうち56家族を和歌山県人が占めた。とりわけ紀南の出身者が多かった。後に「松原移民」と呼ばれる方々である。
 入植区域が決まると、まず掘立小屋を建て、井戸を掘って飲み水を確保。原始林を伐採し、山焼きをして耕作地を作る。そこに陸稲を植え、鶏や豚を飼って、食糧の自給体制が整ったところで、いよいよ換金作物であるコーヒー樹の栽培にかかる。
 入植後5年目からコーヒーの収穫が始まった。入植地は活気づいたが、不運にも1960年代後半から霜の害が頻発するようになり、大半のコーヒー樹が立ち枯れてしまう。霜を嫌って、1980年代後半には大半の方々が入植地を去っていった。
 史朗さんもコーヒー栽培を断念、ドラードス市近郊の農地を買って大豆とトーモロコシの栽培に乗り出す。作柄や販売値の変動にもまれながらも、40年ほどの間に農地も買い増して、今や大農場主となった。
 農場の経営にたずさわる傍ら、史朗さんと奥様のみどりさんは日系子弟の日本語教育に心血を注いできた。みどりさんは田辺市三栖の出身。史朗さんとは入植地で結ばれ
長年、近くの「共栄入植地」の日本語学校で教師を務めた。一方、史朗さんは地域の日本語教育の中核である「ドラードス日本語モデル校」の運営責任者として、今も教育活動を支えている。
同時に、南マットグロッソ州和歌山県人会の会長として奮闘中。村長であったご尊父の性格を受け継いだのか、太っ腹の熱血漢で周囲の信頼が厚い。
 いつも史朗さんから「眞砂さん、我々の仕事はこれからだよ。元気な間に若者同士の交流を軌道に乗せたいし、ドラードス市と紀南の自治体との交流にも道をつけないとね!」と気合がかかる。
これから先、私がどこまで彼の気力と体力についていけるか心もとないが、郷里との絆の強化を熱望する友人の思いは全力で受けとめなければならないと心している。  (2014.5.24掲載)                            
                                    (了)   

 

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