サンパウロの日本移民史料館

 

 

           

                                   眞砂 睦

 

 altサンパウロの東洋人街の一画に「日本移民史料館」がある。ブラジル日本文化福祉協会が核となり、日系社会が総力を挙げて1978年、日本移民70周年の記念事業として設立にこぎつけた。
この建設事業を中心となって推進されたのは、社会学者として知られる斉藤広志サンパウロ大学教授(故人)である。教授はかつて訪れた札幌郊外の「北海道開拓記念館」に感銘。戦前19に万人、戦後に6万人もの日本人移民が歩んできた歴史を後世に伝えるために、ブラジルにもあのような「魂の入った生きた史料館」を造りたいという熱意を持っておられた。
しかし、この分野では素人。力になってくれる人物を探していたところ、国立民族学博物館館長だった梅棹忠夫氏の「国立民族博物館」という著書に出合い、即座に「指導を受けるのはこの人しかいない」と決意された。
 事業に全面協力することを承諾された梅棹氏はまず、日本人移民が足跡を残した奥地に足を運び、多くの日系人から熱心に「聴きとり調査」を行った。そして「新世界の新しい文明形成の参加者、日本人移民」という史料館の基本理念が固められた。梅棹氏は日本人移民を、徐々に姿を現しつつある「ブラジルという新しい文明」を形作っていく重要な構成要員と理解したのである。
梅棹氏の助言を得ながら、多くの日系人から提供された写真や資料、手作りの農機具や日用品などが整理・展示されていった。コーヒー農場の契約労務者の時代、原生林開拓による日本人入植地の建設と日常生活、都市近郊型集約農業の展開、農業共同組合の創設や温帯作物の導入などによる農業革命、大戦中の暗黒時代、戦後の近代化への人的・技術的貢献、日系人の社会進出と日本文化の浸透など、日本人移民がブラジル社会に関わり、歩んできた歴史が壮大なパノラマとなって展開されている。
圧巻は、東郷青児氏の「移民開拓風景」という画題の長さ約15メートル、幅2メートルの超大作だ。画伯が日伯近代美術展のために訪伯した際、初期移民の苦闘に魂をゆさぶられ、史料館の開館に合わせて描きあげて寄贈された。戦前の入植地の開拓作業や日常生活の様子が臨場感あふれるタッチで描かれている。
史料館の開館式には、時のガイゼル大統領(故人)の案内で、皇太子殿下(今上天皇)が訪れられ、移民の汗がしみこんだ史料を熱心にご覧になられた。
自身も移民一世である斉藤教授は後年「日本人の移住、それは日本人が民族として担っている強みも弱みも、そのまま多人種・多民族の社会のなかでむき出しにされ、そして変貌していった歴史的体験である」と書き残している。 
                                   (了)
 

 

 

 

 

 

  

 

「ワールドカップ」こぼれ話(その1)

 

 

           

                                   眞砂 睦

 

ワールドカップが来年にせまってきました。舞台はブラジル。1950年以来2度目の開催ということで、サッカー王国はいやがうえにも盛り上がりをみせています。
サッカーは世界で最も人気のあるスポーツです。その頂点を決めるワールドカップの試合には、オリンピックをはるかにしのぐ人々がテレビにくぎ付けになります。その世界最大のスポーツの祭典にまつわるこぼれ話を、連載でお届けしたいと思います。

サッカーは英国うまれですが、最初に世界選手権が開催されたのは南米ウルグアイでした。1930年のことです。第1回大会は地元ウルグアイが優勝、以後第2次大戦で一時中断しましたが、戦後の1950年に第4回大会として再開されました。その舞台となったのがブラジルです。そして来年20回目となる大会が、54年ぶりにブラジルに帰って来るわけです。
 altブラジルは20回すべての大会に出場している唯一の国です。それになんといっても4回のイタリア、3回のドイツを押さえて、最も多い5回の優勝を勝ちとっています。「王国」と言われるゆえんです。
 20回大会の優勝決定戦の舞台はリオデジャネイロの「マラカナン球戯場」です。マラカナンは1950年のブラジル大会に合わせて建設されました。立ち見席もいれると20万人を収容できる世界最大のサッカー場でした。「王国」ブラジルのメインスタジアムだというので、世界のフアンから「聖地」と呼ばれています。しかし築50年以上経ていることから、今回全面改築されました。立ち見席をなくして、9万5千人収容の近代的な舞台に生まれ変わったのです。ここで来年の優勝決定戦が行われます。
 しかしこの聖地には、50年を経て今なおブラジル人の心を重苦しく締めつけている悪夢が隠されているのです。
1950年、初めてブラジルがワールドカップの舞台になるというので、国中が熱狂のるつぼと化していました。1940年代に独裁政治から脱して民主憲法を制定し、大戦の戦場とならなかったブラジルは経済的にも大国の片りんを見せ始めていた時代です。万事自信を深めていた国民には、この世界一の壮大な競技場で、この大会の優勝杯を握るのはブラジルチーム以外とうてい考えられませんでした。「2番ではだめ」だったのです。
予定通り決勝リーグに進んだブラジルはヨーロッパの強豪、スエーデンとスペインを大差で粉砕、順調に決勝まで駒を進めました。決勝戦の相手はお隣のウルグアイとなりました。ウルグアイには大会直近の2試合に楽勝していました。これで優勝が決まったと考えないブラジル国民は誰ひとりいませんでした。リオの有力紙は試合前日、早くも「世界王者の面々」として自国の選手を大々的に紹介しました。優勝を先取りしたのです。
そして運命の7月16日。マラカナンは20万の人々で埋め尽くされました。ピッチの外では仕事はそっちのけで、国中の人々がラジオにしがみつきました。しかし結果はなんと2対1でウルグアイが勝利!! ブラジル全土が静まりかえりました。
サッカーはブラジルの国技です。世界最大のスタジアムを造って国を挙げて迎えいれたワールドカップでした。そんな大会で、力では劣るとみられていた相手に、こともあろうに最後の土壇場で、それも20万人もの熱狂的なサポーターの面前で負けてしまったのです。国民は苦しみに喘ぎました。「ブラジル現代史の最大の悲劇」と嘆いた人類学者がいたほどです。「われわれのヒロシマ、それは1950年のマラカナンの悲劇だ」と評した社会学者もいました。あれから50年を経た今も、あの聖地での敗戦は人々の心から消えることはないのです。
 来年再びその「因縁の聖地」が決勝戦の舞台となります。その時ブラジルは、半世紀ものあいだ苦しめられてきたトラウマを乗り越えて、新たな伝説をつくることができるでしょうか。  (2013.5.22掲載)                     (了)
 

 

 

 

 

 

  

 
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