「ワールドカップ」こぼれ話(その3)

        

白いペレー                              眞砂 睦

 

 alt 世界のサッカー界を沸かせた二人の英雄がブラジルのペレーとアルゼンチンのマラドーナとすれば、彼らに続く三人目の偉大な選手となれば、やはりブラジルのジッコでしょう。「さむらい日本」を2005年のワールド・カップに引っ張って行った時のあの監督その人です。史上最高のプレーヤー、ペレーが「これまでの間、私に最も近づいたのはジッコだった」と高く評価していることからも、ジッコの実力がうかがえます。
私ごとになりますが、私は1973年に企業の駐在員としてリオに赴任しました。着任早々、試合のルールもろくに知らないというのに、スピード豊かな軽業師の集団演技のような迫力のある本場のサッカーを見て、たちまち魅了されてしまいました。以来、私はマラカナン・サッカー場に足しげく通うようになりました。

 

  当時ブラジルの最強チームであった「フラメンゴ」の攻撃陣のなかに、細身で小柄な若い選手が居ました。体が小さいのに、すばしこいドリブルで相手の守備陣をかわしてゴールに切り込むスピードが際立っていました。難しい体勢でも体格の勝る相手の動きの逆をとってゴールに蹴り込む決定力、正確無比なパスワークで試合を組み立てる力も図抜けていました。それが当時売り出し中のジッコだったのです。私はまだ若くて跳ねまわっていた頃のジッコのプレーを身近に見た、数少ない日本人の一人となりました。

 

  ジッコはポルトガル系の父とイタリア系の母との三男としてリオで生まれました。二人の兄の影響もあって、幼少の頃からボールに親しんだジッコは1971年、伝統ある人気チーム「フラメンゴ」の一軍に登録されました。18歳でした。背番号10」を背負う攻撃的ミッドフィルダーとして、1970年代に頭角をあらわしたジッコは、1980年代の「フラメンゴ」の黄金期を築きあげる原動力となります。自身もゴールを量産するゲームメーカーという役回りも、「王様」ペレーや「神様」マラドーナと同じです。往年のペレーを彷彿とさせるジッコのプレーに、サッカー界は沸きたちました。黒人のペレーと対比して、白人のジッコが「白いペレー」と呼ばれるようになったのはこの頃のことでした。

 ジッコが最初にワールド・カップに登場したのは、1978年のアルゼンチン大会でした。以後、1982年のスペイン大会、1986年のメキシコ大会と連続して3回の出場を果たします。

 ところが、「白いペレー」と尊称されたジッコも、ワールド・カップの舞台ではその持てる力を存分に発揮したとは言えませんでした。最初のアルゼンチン大会では、決勝トーナメントのペルー戦で初ゴールをあげましたが、監督との軋轢があって控えにまわされることが多く、結局ゴールはこの1本に終わりました。ブラジルは3位でした。


 1982年のスペイン大会のブラジルは、世界のフアンから「ドリーム・チーム」と呼ばれ、優勝候補の筆頭にあげられていました。ジッコやソクラテスをはじめとする「黄金の中盤」と呼ばれる4人衆が、芸術的とも言える試合運びを展開していたからです。ジッコもこの大会で4ゴールをあげ、絶好調でした。優勝を疑うブラジル人は誰ひとり居ませんでした。悲しみがやってきたのは決勝トーナメントに進んだ最初の試合でした。相手はイタリア。2対2で迎えた後半、守りのミスでイタリアのロッシに彼自身この試合3本目のゴールを許し、来年このカップはどの国の手にそのまま試合が終わってしまったのです。無敵とみられていた「ドリーム・チーム」がなんと決勝トーナメントの初戦で姿を消したのです。ジッコは優勝の美酒に酔うことができませんでした。最後のメキシコ大会も不運でした。大会前の国内試合で、ジッコは膝を故障していたため控えにまわり、わずかに準々決勝のフランス戦に出場したものの、途中で交代させられました。この試合は、1対1でPK戦にもつれ込んだ末敗れ、ブラジルは8位に終わってしまいました。こうして、ジッコは現役時代を通して、ついにワールド・カップの制覇を遂げることができなかったのです。悲運の名選手という他ありません。

 

 後年ジッコは、Jリーグ創成期の「神島アントラーズ」のプレイング・マネージャーとして日本のサッカー界に大きな貢献をすることになります。当時彼は日本人選手に対して常々、「ただ上からの指示に従うだけの『お人形さん』集団では、組織は絶対強くならない。自分の頭でよく考えろ」、「なにかを得るということはなにかを捨てることだ。プロなら常に100%集中して戦え」、「試合に負けて、ニヤニヤするような選手は今すぐ出ていけ」、と草分け時代の日本人選手にプロ根性をたたき込んでいたそうです。


 サッカーは「狩猟民族」のスポーツです。逃げまわる獲物の動きの先を読んで、猟師たちが力をあわせて射程のなかに追い込んでいき、最後の一発でとどめをさす。それがサッカーです。日本人にはなじみのないスポーツでした。
以前、Jリーグ創成期の日本サッカーを見て、「シュートの打てない日本人」と揶揄した西欧人がいました。「横並び意識が強く、仲間をかきわけて自分が前に出てシュートを放つことをためらってしまう農耕民族、日本人のサッカーのもどかしさ」を言いたかったのでしょう。日本人には「必殺のとどめの一発」がなかなか撃てなかったのです。 来年ワールドカップの決勝戦が行われるマラカナン球場日本が大好きなジッコは、こうした日本人の心情に深い敬意をはらいながらも、同時に日本人が「狩猟民族」と対等に戦える強い精神力と、一瞬の隙をつく牙をむいた狼のような攻撃力を伝授したい、そういう思いがジッコを駆り立てていたのだと思われます。
ここ一番での決定力はまだ充分身についたとは言えませんが、闘将ジッコが残した「さむらい魂」は、日本サッカーの大きな礎となっているのです。 (了) (2013/11/9掲載) 

 

「ワールドカップ」こぼれ話(その2)

        

王様と神様                               眞砂 睦

 

歴史上活躍した数あるサッカー選手のなかで、二人の英雄を選べと言われれば、ブラジルのペレーとアルゼンチンのマラドーナに異議をとなえるフアンは少ないでしょう。

二人はともに「攻撃的ミッドフィルダー」です。試合の組み立てもすれば、みずからもゴールを量産するという万能選手です。それぞれブラジルとアルゼンチンの選抜軍の「背番号10」を背負って、20世紀後半のワールドカップをわかせました。ただ、残念なことに二人がそろって同じ舞台で対決する機会はありませんでした。二人の活躍する時代が少しずれていたからです。

 

 先に登場したのはペレーです。ペレーは15歳の年、1956年にサンパウロ州のクラブチーム「サントス」と仮契約、プロの道に入ります。「サントス」は伝統のある名門クラブで、日本一のドリブラーと言われる三浦和選手が、中学卒業後サッカー修行のためにブラジルに渡り、プロ選手となって籍を置いたチームとしても知られています。

 その「サントス」でペレーはまたたく間に頭角を現します。入団2年目の1957年のサンパウロ州選手権で早くも得点王となり、正式入団を果たします。次の年も2年連続の得点王となり、州選手権の優勝に貢献。そしてその年、1958年のワールドカップ・スエーデン大会に、なんと17歳の若さでブラジル代表選手に選ばれたのです。

その初舞台での準々決勝、ウェールズ戦で彼は初ゴールをあげました。これがワールドカップ史上最年少選手の得点となりました。さらにスエーデンとの決勝戦でも2得点をあげて、チームは5対2で勝利。結局この大会でペレーは6得点をあげ、ブラジルの初優勝に貢献、世界中のメデイアから「若きキングが誕生!!」と絶賛されました。この時以来、ペレーは「キング(王様)」と呼ばれるようになりました。

 その後彼は、1962年のチリー大会、1966年のイングランド大会、1970年のメキシコ大会と連続して出場。ブラジルは1962年と1970年の大会に優勝しましたが、なかでも3度目の優勝を果たした1970年大会のブラジルは史上最強のチームと言われていました。ペレーをはじめ、リベリーノ、ジェルソン、トストン、ジャイールジニョなど、当時国際的に知られた選手がひしめいていました。ペレーはこの大会で、自分自身は3得点に終わりましたが、まわりを固めるタレント達を縦横に動かして、練達したゲームメーカーとして優勝に導きました。これが、生涯通算1281ものゴールを決めた「王様」ペレーの、ワールドカップ最後の試合となりました。

ペレーが去ったブラジル選抜軍は、その後24年間優勝から遠ざかることになり、「王様」の存在がいかに大きかったか、国民は思い知らされることになったのです。

 

 一方、アルゼンチンの英雄、マラドーナはペレーにおくれること20年、1960年に生まれました。ペレーと似て、1976年にアルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳でプロ・デビュー。早くも1979年と1980年に、アルゼンチン1部リーグで得点王となり、1980年には南米年間最優秀選手賞を獲得しています。

 1981年、ブエノスアイレスの伝統ある人気クラブ「ボカ・ジュニオール」に移籍。

移籍直後に、伝統的なライバル「リバープレート」との一戦で全3得点をあげて、「ボカ」を勝利に導き、たちまち熱狂的なフアンを獲得しました。

 ペレーが選抜軍現役時代は一貫して「サントス」に所属していたのにひきかえ、マラドーナは自国で有名になるや1982年、スペインの名門「バルセロナ」に移籍します。

新天地ではなばなしい活躍をみせる一方で、コカイン使用疑惑やピッチでの乱闘さわぎなどをおこし、波乱の船出となりました。

その後イタリアの「ナポリ」に移籍、弱小チームを引っ張り上げたことで「ナポリの王」と呼ばれ人気を集めますが、ここでもコカイン疑惑やマフィアとの関係をとりざたされ、イタリアを去るという寂しい人生を歩んでいます。

そうした波乱の選手生活のなかで、マラドーナはアルゼンチン代表選手として、1982年(スペイン)、1986年(メキシコ)、1990年(イタリア)、1994年(アメリカ)と連続して出場します。

1982年大会では、決勝トーナメントでライバル、ブラジルと激突。この時のブラジルは「黄金の中盤4人衆」を擁していました。後に「さむらい日本」の監督を務めることになるジッコも「4人衆」の一人でした。この試合で、マラドーナは「黄金の中盤」のパス回しに翻弄され、アルゼンチンは良いところなく敗退しました。

「奇跡」が起きたのは次の1986年、メキシコ大会です。準々決勝でアルゼンチンはイングランドと激突。イングランドといえば、1982年の「フォークランド戦争」で痛い目にあわされた記憶がよみがえります。アルゼンチンにとっては負けることができない因縁の対決となりました。

 それは双方無得点で迎えた後半4分のことでした。マラドーナは得意のドリブルで正面に切り込み、ゴール手前で相手デイフェンスがけり上げたボールがふわりと浮きあがります。すかさずマラドーナが走り込み、ヘデイングでゴールを決めた(ように見えました)。イングランド側は即座に「ハンドだ!」と猛烈に抗議しました。しかし主審はゴールと判定しました。ところがテレビの再生映像を見ると、マラドーナがジャンプしながら左手でボールを押し込んでいるのがはっきり見てとれました。明らかに反則です。試合後のインタビューで、彼は「あれは神が現れて私に手をさし伸べてくれたのだ」と平然と語ります。神様のおぼし召しにより手をつかうことが許された、というわけです。これがサッカー史上、「神の手ゴール」として今に語り継がれているエピソードです。

 さらにマラドーナはこの試合で、50メートル近くもドリブルで切り込んで、5人の相手をかわして神業とも見える2点目のゴールも決めました。これは「驚異の5人抜きゴール」として歴史に刻まれています。彼はイングランドとの因縁の試合で、なんと2つもの「伝説」をつくりあげたのです。こうしてマラドーナの活躍でイングランドを破ったアルゼンチンは、この大会で2度目の優勝を勝ち取りました。

 その後、薬物使用によるブランクの後、1994年のアメリカ大会で代表に復帰しますが、1次リーグ終了後の検査で再び薬物が検出され、大会から即時追放されてしまいました。こうして「神の手をもつ」マラドーナのワールドカップの戦いは終わりをつげました。

 

  ふたりが去った後の21世紀のサッカー界にも、新しいヒーローが次々と登場しますが、「王様」と「神様」が作った伝説の輝きは今も消えることがないのです。   (了)2013/9/10掲載

 
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