【ニッポン歴史探訪】小田原城(おだわらじょう) その2


 ※お願い)例えば、小田原城の数列35.2507973 , 139.1533041 は、それをコピーして、Google Earthジャンプのウィンドウに貼り付けて、ご利用ください。


 関東管領・上杉憲政との約束を実行するのに先立ち、越後の長尾景虎は、将軍足利義輝(よしてる)から後北条征伐の直々のお墨付きを貰います。景虎はいよいよ、1560年、憲政を押し立てて関東に出兵します。関東で年を越した景虎は、彼に従う関東の多数の武将も加え、1561年3月 、小田原城を攻撃します。北条氏康が、戦力の消耗を避け、徹底した籠城策をとったため、景虎は攻略を断念します。しかし、鶴岡八幡宮に上杉の名跡と関東管領の地位を継承したことを報告します。以後、上杉謙信(うえすぎけんしん 長尾景虎から改名)は、ほぼ毎年関東に出兵することになります。一方、氏康は、甲斐の武田、駿河の今川と結んだ相・甲・駿の三国同盟で謙信に対抗してきます。しかし、桶狭間での敗戦による今川の凋落著しく、1568年、信玄が一方的に三国同盟を破棄しました。そのため、氏康は、謙信に領地を譲歩して、越・相同盟を結びます。これに信玄が腹をたて、1569年、武蔵から南下して小田原城を包囲しますが、北条側の籠城作戦を嫌い、すぐ撤退します。追尾した後北条勢は、三増峠(みませとうげ 神奈川県愛川町 35.5572279 , 139.2816210 )で撃退されます。

 1571年、氏康が病没すると、後継者の北条氏政(うじまさ)は、越・相同盟を破棄し、武田信玄と
相・甲同盟を結びます。1574年、氏政は、謙信側の関宿城(せきやどじょう 千葉県
36.1012669 , 139.7824860 )を攻略、ここを足場に勢力を下野(しもつけ)国の南半分にまで広げます。こうして、1582年頃、後北条の支配地は関東一円に達し、関東で後北条の支配が及ばないのは、常陸(ひたち 佐竹領)、安房(あわ 里見領)、下野の北半分(宇都宮領)くらいとなります。 1580年頃、氏政は、家督を5代目氏直(うじなお)に譲り、隠居しますが、実権は放していません。

 ところで、織田軍が、1582年3月、甲斐の天目山(てんもくざん)で武田勝頼を敗死させると、信長は上野国支配のため滝川一益(たきがわかずまさ)を上野国 に派遣します。同年6月、本能寺の変で信長が倒れると、氏直は素早く滝川軍を攻撃し、上野国の支配権を取り戻します。しかし、豊臣秀吉による天下統一が進み、後北条が頼りにしていた徳川家康も、1586年、秀吉に服従したため、後北条は急速に孤立してゆきます。1587年、島津が屈服し、全九州を支配した秀吉は、関東及び東北の大名・武将に’私戦’を禁ずる「惣無事令 そうぶじれい」を出します。
 こんな状況下、既に秀吉が、利根川東の沼田城( 36.6482705 , 139.0383983 )は後北条領、利根川西の名胡桃城(なぐるみじょう 36.6697442 , 138.9914489 )は真田領と裁定していたのに、1589年10月、後北条の沼田城代が真田側の名胡桃城を攻め落とすという事件を起こしました。秀吉は、これを後北条側の「惣無事令」違反とみなし、小田原攻めを決定します。

 1590年1月、徳川家康が駿府城を出撃。続いて前田利家・上杉景勝連合軍が北陸から信濃を経て関東に攻め入ります。秀吉も4月小田原城を見下ろす石垣山
(35.2348936 , 139.1279411 )に本陣を構えます。前田・上杉連合軍は、4月、上野国の支城をつぎつぎと攻め落とし、5月には武蔵国に攻め込み、城主の北条氏邦(うじくに)みずから籠城する鉢形城(36.1095190 , 139.1959190 )に少々手こずりながら6月14日降伏させ、八王子城(35.6526410 , 139.2530823 )は6月23日の一日で落城させました。このように後北条側の支城は6月中にほとんど陥落し、残るは小田原城と忍城(おしじょう)だけとなりました。後北条側は評定を重ねた結果ついに敗北を認め、7月5日、小田原城を開城しました。
忍城(36.1377707 , 139.4540495)だけは石田三成(いしだみつなり)の水攻めに屈せず頑強に抵抗を続けましたが、7月16日、やっと開城しました。こうして、5代、約百年間、小田原城を本拠として関東一円に君臨した後北条氏は滅びました。なお、主戦派の北条氏政と弟・氏照(八王子城主)は切腹、氏直(家康の娘婿)は高野山に送られました。

 その後、豊臣秀吉は、駿府城を居城とする徳川家康を後北条の領地であった関東に移封します。その命令に従い、家康は江戸城を居城とし、小田原城に腹心の大久保忠世(おおくぼただよ)を置きました。後北条時代の善政のせいか、いまでも市民の多くが後北条びいきです。
(終り) 黒瀬記(2011/6/9)
 

 

【ニッポン歴史探訪】小田原城(おだわらじょう) その1

 (お願い)例えば、小田原城の数字列35.2507973 , 139.1533041 は、それをコピーして、Google Earthジャンプのウィンドウに貼り付けて、ご利用ください。

 駿河(するが いまの静岡県)から箱根の山を越えて関東に入ったところは、相模(さがみ いまの神奈川県)西南部にある城下町”小田原”です。ここの小田原城(35.2507973 , 139.1533041 )を本拠に活躍する、伊勢新九郎(いせしんくろう。後の北条早雲(ほうじょうそううん))から始まる戦国大名の後北条家(鎌倉時代の執権家である北条と区別するため、後北条(ごほうじょう)とよく呼ばれます)についてお話をしましょう。

 謎の多い伊勢新九郎 は、40歳代中ごろ、’応仁の乱(おうにんのらん)’で揺れ動く京都から駿河にやって来ました。彼の甥(妹の子)である今川氏親(いまがわうじちか)のため働いた功績から、50歳代後半、やっと沼津の城持ちとなります。60歳になると、関東管領家の内紛(注)に乗じ、堀越公方を伊豆から追い出し、韮山城(にらやまじょう 35.0534674 , 138.9555502 )を本拠にして、伊豆国を支配します。さらに、1495年、早雲64歳のとき、機会到来とばかりに、当時の小田原城主を追い出し、城を奪い取ってしまいます。こののち小田原城が後北条の本拠となります。しかし、小田原城は2代目氏綱(うじつな)に任せ、北条早雲は韮山 城から目を光らせます。その後、扇谷上杉に巧みに取り入りながら、一方で三浦半島を支配する三浦を滅ぼし、相模を支配します(1518年)。翌年、早雲は韮山城で88歳の生涯を閉じます。

 ところで、早雲と対照的な人生を送った武将に扇谷上杉の重臣・太田道灌(おおたどうかん)がいます。彼は古河公方に対抗するため江戸城を築いたことで有名です。古河公方側との戦いで目覚しい働きをしましたが、それが逆にあだとなり、働き盛りの55歳で、扇谷上杉の主君に妬まれだまし討ちされました。他方、道灌と同年齢の早雲は、まだ無名の55歳から、遅まきながら、30数年かけて関東に覇を唱える後北条5代の基礎を作りました。
 2代目の北条氏綱は、1524年、扇谷上杉朝興(うえすぎともおき)の居城である江戸城を攻略して武蔵国への進出の足がかりを作ります。朝興は河越城(かわごえじょう)に逃げ、その後、城の攻防が長く続きます。1537年、氏綱は、病没した朝興の後継者である扇谷上杉朝定(ともさだ)を河越城に攻め、城を奪い取ります。このときから、後北条は河越城(35.9239842 , 139.4920349 )を拠点にして北武蔵の支配を進めます。。
 3代目の北条氏康(うじやす)が家督を継ぐと、1545年10月、朝定は河越城を奪回するため、山内上杉憲政(うえすぎのりまさ 関東管領)、足利晴氏(あしかがはるうじ 古河公方)の支援をうけ8万余の軍勢で河越城を包囲します。守る後北条側は3千の守備兵で半年持ちこたえます。

 1546年4月、氏康みずから8千余騎の精鋭を引き連れ応援にかけつけ、包囲軍の背後から夜襲を掛け劇的な勝利をおさめます。有名な「河越夜戦(かわごえよいくさ)」です。その結果、(a)包囲軍総大将の朝定は戦死し、扇谷上杉は滅びます。(b)関東管領の憲政は上野(こうずけ)国平井城(群馬県藤岡市)に退きますが、さらに追われて長尾景虎(ながおかげとら 後の上杉謙信)を頼って越後に逃げ込みます。そして、憲政は、後北条退治を条件に、景虎に上杉の姓と関東管領職を譲ることを約束します。(c) 古河公方の晴氏は、氏康の妹を後妻としながら、氏康に敵対したため、後北条の血を引く義氏(よしうじ 氏康の妹の子)に家督と古河公方の地位を譲らされます。

(注)室町時代の関東には、将軍の命令・指示を実施するため、鎌倉公方(かまくらくぼう 足利尊氏の子基氏に始まる。足利氏の世襲)とその補佐役の関東管領(かんとうかんれい 足利基氏が執事上杉憲顕を任じたのが始まり。山内上杉氏の世襲)が置かれました。ところが、行政・軍事などに独自色を出したいと考える鎌倉公方が現われ、幕府と幕府の意向に従う関東管領と仲間割れを起こします。ついには、鎌倉公方は、支持する武将たちの多い古河に移り古河公方(こがくぼう)と呼ばれるようになります。そこで幕府は新たな公方を鎌倉に送り込もうとしますが、鎌倉に入れず、伊豆の堀越に留まったため、堀越公方(ほりこしくぼう)と呼ばれます。
また、上杉氏には、関東管領を世襲する山内(やまのうち)上杉氏(上野国や伊豆などを勢力圏とする)と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏(相模、武蔵などを勢力圏とする)という主な2つの系統がありますが、互いにあまり仲は良くありません。しかも、山内上杉氏の家宰が長尾氏、扇谷上杉氏の家宰が太田氏ですが、主君と重臣の間に反逆、謀殺などが起こります。こんな仲間割れが、後北条の関東支配圏拡大を大いに助けたと言えます。
(つづく) 黒瀬記 (2011/5/30)

 
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