日系ブラジル人

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日系ブラジル人(にっけいブラジルじん)は、ブラジル移民として渡った日本人の子孫である。ブラジルは世界最大の日系人居住地で、現在約150万人の日系人が住む。なお2008年は、日本人移民100周年にあたり両国でさまざまな催しが行われた。

 

歴史

労働者不足の解消

ブラジルはアフリカ大陸から送り込まれる奴隷コーヒー園などにおける農業労働者として重用していたものの、奴隷制度に対する内外の批判を受けたことから、1888年奴隷制度廃止を行った。その後農業労働者が不足することとなったため、イタリアスペインドイツなどのヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めた。しかし農場労働者としてブラジルに渡ったイタリア人移民が、奴隷と変わらぬ住環境や労働の過酷さ、賃金の悪さなどの待遇の悪さのために反乱をおこし、その後移民を中止したために再び農業労働者が不足することとなった。

これを受けてブラジル政府は、1892年に日本人移民の受け入れを表明したものの、日本とブラジルとの間に正式な外交関係がないため日本からの移民を送り出すことができなかった。その後1894年に「殖民協会」の根本正がブラジルへ赴き、ブラジルが日本人移民にとって適切な移民先であるとする報告を行い、翌1895年には日本とブラジルの間で「日伯修好通商航海条約」が結ばれ、1897年にはリオ・デ・ジャネイロ州ペトロポリスに日本の公使館が設けられた。

新たな移民先

1900年代のサンパウロ市

外交関係が樹立されたことで、日本から移民を送り出す法的な素地が出来上がったが、日本の外務省は先に起きたイタリア人移民の事案を根拠に、ブラジルへの移民を送り出すことを躊躇していた。さらに1897年8月に「吉佐移民会社」が、初の正式移民として1500人を「土佐丸」で神戸港からブラジルへ向け送り出す予定であったが、受け入れ先のブラド・ジョルダン商会が出港直前に急遽受け入れを中止する事件が起きたこともあり、その後日本政府はブラジルへ向けた移民を許可しなくなってしまった。

さらにそれまで多くの日本人移民を受け入れていたアメリカ、特にカリフォルニア州を中心とした西海岸一帯を中心に日本人移民排斥が激しくなったために、1900年に日本政府はアメリカへの移民を制限することとなった。

その後1904年に起きた日露戦争において、日本はロシアに対して勝利をおさめたものの、ロシアから賠償金を得られなかったこともあり経済は混乱し、農村の貧しさが深刻になっていた。さらにその後アメリカ政府が日本人移民の受け入れ数の制限を強化したことや、アメリカに代わる移民受け入れ先として有望視されていたオーストラリアカナダ政府も日本人移民の受け入れを制限したことから、日本政府は新たな移民の受け入れ先を模索することとなった。

日本人移民開始

水野龍(前列中心)
笠戸丸

1905年にブラジルに赴任した杉村濬公使が、ブラジル政府の閣僚から日本人移民の実施を打診されたことから、その後移民の候補地の1つであるサンパウロ州を視察し早期の日本人移民の実施を本省に打診した。その後杉村の報告書が大阪毎日新聞に掲載されたことから、日本政府だけでなく移民希望者の間で大きな反響を呼ぶこととなった。

これを受けて、移民の送り出しを行っていた「皇国殖民会社」の役員であった水野龍がブラジルに向かい、1907年11月には労働者不足にあえぐサンパウロ州政府との間に、「1908年以降に3000人の移民を送り出す」旨の契約を締結し、その後日本全国で移民希望者を募った。なおこの際に、サンパウロ州政府は渡航費の補助を行うことにしたものの、移民の定住とより多くの労働力の確保を求めて「家族単位での移民」を条件としてつけることとなった。

募集期間が半年弱と短かったうえに、「家族単位での移民」という条件のために移民希望者を集めるのに苦心したものの、最終的に781人が第1回の移民として皇国殖民会社と契約を行った。なお、このうちの3分の1を超える325人が沖縄県出身者で、その後も多くの沖縄県民がブラジルへと移民した。

その後1908年4月28日に、781人の移民は東洋汽船の「笠戸丸」で神戸港を出港し、シンガポール南アフリカを経由して6月18日サンパウロ州サントス港に到着した。サントス港に到着した移民たちは、その後サンパウロへ鉄道で移動し、移民宿泊施設に収容された後に契約したコーヒー園へとへ向かった。

なお1910年5月には、その後経営難に陥った「皇国殖民会社」を受け継いだ「竹村殖民商館」によって第2回の日本人移民が行われ、906人がサントスへと送られた。

過酷な待遇

コーヒー収穫を行う日本人移民

「皇国殖民会社」が移民希望者を募る際に、ブラジルでの高待遇や高賃金を歌ったために、移民の殆どは数年間の間コーヒー園などで契約労働者として働き、金を貯めて帰国するつもりであった。しかし実際は、先に移民したイタリア人移民同様に住環境や労働の過酷さ、賃金の悪さなどの待遇が悪かったために貯金もままならない状況であった。また支給される食料も調理品種用の青バナナキャッサバ粉、フェイジャンといった豆類などが主なものであった。

なお、多くの「家族」が、移民の受け入れ条件に合致させるために家族を偽装したものであったことや、農業移民の募集であったにもかかわらず、農業従事の経験がないものも多く混ざっていたことが判明した。その上、後から来た移民である日本人が開拓事業で割り当てられた土地はそのほとんどが、肉食獣ピューマジャガー、テリトリー意識が強いヤマアラシといった猛獣のテリトリーでもある荒野であった。

さらに一部のコーヒー園では奴隷同様に移民を扱うものもあり、この様な待遇の悪さや賃金の悪さから、皇国殖民会社に対して帰国を申し出る者が出た他、ストライキや夜逃げも多く発生し、リオ・デ・ジャネイロ州などの近隣州やアルゼンチンへと渡るものや、鉄道工事労働者や大工などへの転身を図るものも多く、1909年外務省の野田良治通訳官が調査した結果、笠戸丸で移民し、当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであったと報告されている。

成功と定住化

日本人移民が運営するジャガイモ畑

結果的に、多くの日本人移民が自らの農地を取得し自作農となることを選択し、日本人移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得し、「植民地」と呼ばれる集団入植地や農業組合を形成するようになり、1919年には、初の日系農業組合として、ミナスジェライス州に「日伯産業組合」が設立された。この様な傾向はその後増加し「コチア産業組合」など、その後ブラジルの農業の振興に大きな役割を果たす農業組合が多数出来てゆくこととなる。

その後多くの日本人移民が自作農として独立、成功し、コーヒー価格の暴落を受けて綿胡椒ジャガイモなどへの転換を進めるものや、サンパウロを中心に日本人移民向けの各種商店工場医師を開業する者が現れた。その後これらの多くは日本人移民だけでなく、ブラジル人向けにその商圏を広めていくこととなった。

なお、ジャガイモやレタストマトにんにくなどの、現在ブラジルで栽培されている野菜果物などの農産物の多くは、農作物の転換を進めた日本人移民がブラジルへ持ち込み、品種改良などを通じてブラジルの赤土での栽培に成功したものである。

この頃には日本人移民の子弟や、現地で出生した日本人移民2世(=日系ブラジル人)の教育の必要性が出てきたことから、1915年には、当時日本人移民が多く集まっていたサンパウロ市内のコンデ・デ・サルゼーダス街に、ブラジル初の日本人学校である「大正小学校」が設立された。

移民の増加

海外興行株式会社による広告。「一家をあげて」とあるが、これはブラジル側が定住労働力確保を目的としていたため、基本的に、働き手が3人以上いる家族にしか移住の許可を与えていなかったことに関連している
日本人移民が運営する茶畑

1914年にサンパウロ州政府は「経済悪化」と「移民の定着率の悪さ」を理由に日本人移民への補助の一時中断を表明し、増加を続けていたブラジルへの移民は中断されることとなった。しかし同年に第一次世界大戦が勃発し、主戦場となったヨーロッパからの移民が止まったため、1917年に日本人移民の受け入れを再開した。また、これまでは移民の送り出しを数社の小規模な民間企業が行っていたが、日本人移民の再開を受けて同年に日本政府は「海外興業株式会社」を設立し、ブラジルへの移民の送り出し窓口を一本化した。

なお、第一次世界大戦による特需のため(日本は連合国の1国として参戦し戦勝国の1国となったが、日本本土は全く戦禍を受けなかったため、戦争中は「連合国の工場」として機能し重工業から軽工業までがフル稼働することとなった)に、一時的に移民希望者が減少した。

しかし、それまで最大の日本人移民の受入国であったアメリカが、日本人移民や日系アメリカ人に対する人種差別の激化と、それに伴う黄禍論の勃興などにより日本人移民の受け入れを実質禁止したこともあり、日本政府は国策としてブラジルへの移民を推奨するようになり、移民希望者に対する渡航費の全額補助などの施策を打ち出した。これを受けて1920年代後半にはブラジルが最大の日本移民受入国となった。

日本人移民の子弟と現地で出生した日本人移民2世の増加を受けて、ブラジル全土で日本人学校の開設が相次ぎ、1930年代前半にはブラジル全土に200を超える日本人学校が運営されていた(なおこれらの日本人学校の一部は日本政府の資金援助を受けていたものの、当時の学校教育法のもとに運営されていた学校ではなく、現在でいう「無認可校」であった)。また「サンパウロ新聞」や「パウリスタ新聞」、「日伯毎日新聞」などの日本人向けの日本語新聞も数紙登場した他、仏教神道新興宗教が移民とともに進出した。

「ブラジル拓植組合」

1927年には、三菱財閥が「東山農場(Fazenda Monte D'este)」を始めるなど、日本企業の進出も小規模ながら開始された他、サンパウロ州への日本人移民の過度の集中による排斥機運の高まりを緩和させるため、パラナ州マットグロッソ州など他の州への入植も積極的に進められることとなった。

またこの頃、多くの移民を送り出していた各県が「海外移住組合連合会」を設立し、資金を出して集団入植地を購入し、移民が組合から資金の貸付を受けて土地を購入して入植する事業が開始された。その後海外移住組合連合会は、これらの新規移民による集団入植をサポートする機関として、1929年4月に「ブラジル拓植組合(Sociedade Colonizadora do Brazil Limitada、ブラ拓)」を設立した。

その後ブラジル拓植組合は、ブラジル拓殖組合商事部やブラジル拓殖組合鉱山部、ブラジル拓殖組合綿花部、ブラジル拓殖組合製糸部などを傘下に持ち、様々な領域に事業を拡大した他、1937年には日本人移民や日系ブラジル人への融資などを行う銀行部も設立した。その後1940年に銀行部はサンパウロ市を拠点とした「南米銀行」となり、業務範囲を拡大し1998年まで業務を行った(その後はスダメリス銀行へ事業ごと吸収され、さらに同行はABNアムロ銀行に買収された)。

移民同化政策の推進

ヴァルガス大統領(左)とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領

日本人移民の増加と定住化が進んだものの、増え続ける日本人移民とその成功や、1930年代に入り満州事変日中戦争など日本の対外侵攻が相次いだことを受けて、日本人移民に対する排斥の動きがにわかに高まった。さらに、1930年大統領に就任したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが、移民のブラジルへの同化政策を進めた(日本人移民のみならず、すべての移民に対して行われた)ことから、1938年12月には日本人学校の廃止が行われた上に、1941年7月には日本語新聞の発刊停止が行われた。

これを受けて1930年代後半には日本へ帰国する移民が相次いだ上に、1939年9月に発生した第二次世界大戦のヨーロッパおよびアフリカ戦線における戦闘激化を受けて、1941年8月を持って日本人移民の受け入れが停止された。

第二次世界大戦

ブラジルは、1939年9月に開戦した第二次世界大戦において当初は中立を守っていたものの、1941年12月に日本との間に開戦したアメリカフランクリン・ルーズベルト大統領からの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定し、日本やイタリア、ドイツなどの枢軸国との国交を断絶した(なお、国交は断絶したものの、ブラジルが日本に宣戦布告したのは終戦直前の1945年6月であった)。

戦前から外国人移民やその子弟に対して同化政策を行ってきたヴァルガス大統領は、開戦後直ちに枢軸諸国の言語による出版活動のみならず、公共の場におけるこれらの外国語での会話を禁止し、さらに枢軸国人の移民の財産の没収と大西洋沿岸からの退去を命じた。なお同時期にアメリカにおいて日系人の強制収容が行われたように、多くの日本人移民や日系ブラジル人があいまいな容疑で逮捕され、終戦までの間抑留された。

「勝ち組・負け組」

横浜港へ帰還した交換船(第一次日英交換船の鎌倉丸)

日本語新聞の廃刊により、ポルトガル語を解さない多くの日本人移民が情報断絶状態に置かれることとなった。さらに国交断絶後に日本公館が閉鎖され、1942年になり石射猪太郎特命全権大使以下の外交官が交換船で帰国すると、日本国内の状況の伝達は現地(ポルトガル語)のマスコミやわずかに伝えられる日本からの短波ラジオの伝達のみとなり、戦況についてのデマがポルトガル語を解さない多くの日本人移民の間で横行することとなった。

1944年に入り、日本をはじめとする枢軸国の戦況が悪化するにもかかわらず、これらの事実を「連合国として参戦しているブラジル政府によるプロパガンダ」として受け取らない者が、奥地の農民を中心に続出した。さらに、1945年8月に日本が連合国に対して降伏したにもかかわらず、多くの日本人移民や日系ブラジル人がこれをデマとして信用せず、日本の敗戦を受け入れたものと受け入れないもの、いわゆる「勝ち組」と「負け組」の問題が発生し、終戦後の1946年には、敵対する者同士によるテロ事件や、ブラジル人との大規模な衝突まで発生した。

なお、「勝ち組」の多くは、1946年に日本語新聞の発刊が解禁され、1951年に日本とブラジルの国交が回復しても日本の敗北を信じず、「負け組」に対する攻撃を続けた。その後も両者の対立は続いたが、1954年に行われたサンパウロ市400年記念祭や、1958年の移民50周年記念祭をきっかけに融和が進み、1950年代後半には次第に「勝ち組」の勢力が縮小し姿を消すこととなったものの、日本人移民および日系ブラジル人社会の分裂は、大きな悪影響を残すこととなった。

移民再開

1951年に日本とブラジルの国交が回復したことを受けて、ヴァルガス大統領は日本人移民の受け入れ再開を認め、1953年から移民の送り出しが再開された。さらに1954年には、外務省が移民送り出しのための機関として「日本海外協会連合会」を設立した他、1955年には日本人移民への開拓地の分譲促進を目的とした「日本海外移住振興会社」が設立された。これらの政府による施策が行われたこともありブラジルへの移民数が増加し、1959年に日本人移民は年間で7000人を超え、延べ移民総数は25万人に達した。

なお戦後の日本人移民には、上記のような政府による支援策が用意されただけでなく、「コチア産業組合単独青年雇用移民」をはじめとして、戦前の移民が作った各種組合など現地における受け皿が用意され、現地における受け入れ態勢が未熟な戦前の移民に比べ恵まれた環境となった他、建設省が後援していた「産業開発青年隊」や日伯合弁企業への技術者の移民など、農業や工業など様々なジャンルにおける技術を持った、いわゆる「技術移民」の割合が多くなった。これらの戦後の移民は「新移民」と呼ばれ、農業労働者や単純労働者を中心とした「旧移民」と区別された。

リベルダージ

リベルダージのガルボン・ブエノ通り

またこの頃、サンパウロ市中心部のリベルダージに日本映画の専門館である「ニテロイ劇場」がオープンしたこともあり、多くの日本人や日系ブラジル人がリベルダージ周辺に移り住み、これ以降現代に至るまで、リベルダージが「日本人街」として栄えて行くこととなった。

現在リベルダージ地域内には、日系ブラジル人が経営するホテル日本料理レストランスーパーマーケット日本語書籍を扱う本屋ニッケイ新聞やサンパウロ新聞などの日本語新聞の本社、更に日本風の土産物店などが立ち並び、世界最大級の日本人街となっており、日本語のみでの買い物が可能なほどである。

また、リベルダージ駅前の広場を中心に「日系団体御三家」と呼ばれ、日系ブラジル人の代表機関となっているブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会、ブラジル都道府県人会連合会の各事務所があり、他にも各県人会、日系福祉団体、日系文化団体の事務所が集中しており、ブラジルにおける日本文化の発信地ともなっている。

なお、ブラジル日本文化福祉協会内に設置されている移民資料館では、当時の生活を再現した展示コーナーや日系人移民の旅券、当時使用していた生活用具などさまざまな文物が展示されており、日本人移民や日系ブラジル人の歴史を知る上で貴重な存在となっている。

世代交代

トヨタのブラジル法人が1959年に生産を開始した「バンデイランテ」

1950年代以降、日本の高度経済成長を受けてトヨタ自動車IHI東京海上日動火災保険パナソニックなど、多くの日本企業がブラジルに進出し、これらの企業の駐在員としてブラジルに渡る日本人の数は急増した。しかしこれに反比例して、日本国内の所得の向上などを受け新たにブラジルに渡る日本人移民は急激に減少した。

またこの頃、ブラジル生まれでブラジル人としてのアイデンティティを持った「2世」や「3世」の多くが成人し、ブラジル社会の中枢へと入って行ったことで、ブラジルにおける日系人社会(「コロニア」と呼ばれる)の中心が、日本人である「日本人移民1世」から、ブラジル人である「2世」や「3世」へと変わった。

なお、1954年には、日系ブラジル人2世の田村幸重が初の日系ブラジル人の連邦議員に就任した他、1969年には初の日系ブラジル人の国務大臣として、2世のファビオ・ヤスダ・良治が商工大臣に就任した。また、1974年には同じく2世のシゲアキ・ウエキが鉱山動力大臣に就任した。この3人の国政中枢への就任は、「日系ブラジル人の社会的成功」と「ブラジル社会への同化」の象徴として受け止められた。

また、1960年代に、ヴァリグ・ブラジル航空の前身となるレアル航空や日本航空がサンパウロ-東京間の直行便の運航を始めたことや、その後航空運賃が下がったこと、さらに日本人移民数の急減を受けて、1973年には船によるブラジルへの日本人移民が廃止されることとなった。

日系人に対する高い評価

現在の日系ブラジル人を代表する人物。右からルイス・グシケン大統領府広報行政調整長官、歌手(元パト・フ)のフェルナンダ・タカイ、スーパーモデルジュリアナ・イマイ

日系ブラジル人2世、3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多く、上記のような政界や官界、経済界の中枢のみならず、医師弁護士教員芸術文化スポーツ等を含む広範な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献したと高く評されている。

なお、ブラジル及びラテンアメリカ諸国全体で見ても屈指の大学とされるサンパウロ大学の学生のうち、約15パーセントが日系ブラジル人の子弟であるが、1パーセントに満たない日系人の人口比からみて、それがいかに高いものかがわかる(ただし、サンパウロ州としてみれば総人口に占める日系人の比率は2パーセント強であり、サンパウロ大学の本キャンパスが所在するサンパウロ市にいたっては総人口の5パーセント強は日系人であるという点、ブラジルの中でも日系人が偏在しているサンパウロ州周辺の南東部・南部地域が他の地域に比べ高等教育を受けやすい地域でもある)。

また、上記のようにの高度経済成長期前後に多くの日本企業がブラジルに進出した際には、これらの日系ブラジル人がその先導役を務めただけでなく、日本人移民や日系ブラジル人がブラジルに作り上げた「日本人は勤勉」、「日本人は信用できる」という評価が、日本企業のブラジル進出と市場への浸透を容易にしたと評価されている。

日系人の「日本出稼ぎ」

群馬県太田市

1970年代前半にブラジルは「ブラジルの奇跡」と言われる好景気に沸いたものの、1970年代後半以降には激しいインフレーションに見舞われるなど経済的苦境が続くこととなる。これに対して日本は、高度経済成長を達成した後も安定した経済状況にあったために、移民の流れは逆転した。

特に1989年に日本の出入国管理法が改正され、3世までの日系ブラジル人とその家族を無制限に受入ることを始めると、日本での高収入に着目した、もしくはブラジルで職を失った多数の日系ブラジル人が日本へ出稼ぎにくるようになり、ヴァリグ・ブラジル航空日本航空東京名古屋行きの直行便は、出稼ぎに来るブラジル人で混み合うようになった。

ブラジルの経済が再び活況を呈している現在でも、日系ブラジル人の日本への出稼ぎは多く、現在日本に滞在するブラジル人は約30万人以上とされる。なお出稼ぎに来る日系ブラジル人とその家族の殆どは工場労働者などのブルーカラーが中心で、専門職や技術職の者は少ないこともあり、群馬県太田市群馬県邑楽郡大泉町栃木県小山市愛知県豊田市豊橋市静岡県浜松市岐阜県美濃加茂市可児市大垣市などの期間労働者期間工)を多数雇用する工場地帯に多い。

またこれに伴いブラジル系日本人の数も増加することとなり、日本に住む日系ブラジル人やブラジル系日本人向けの新聞や雑誌が発行された他、ブラジル人を主な顧客としたスーパーマーケットや各種商店が上記の地域を中心に多く営業している。なお、日系ブラジル人による日本への出稼ぎ者の増加に伴い、「出稼ぎ」という言葉は「Dekassegui」と表記され、ポルトガル語でも通用するほどになった。

現在

日本人移民100周年記念式典を訪れた徳仁親王と握手するルーラ大統領

近年の日系ブラジル人による日本への出稼ぎの増加とは反比例して、日本からブラジルへの移民は1980年代に入るとほとんど見られなくなった。しかし、日系人移民と日系ブラジル人の存在は、政治的関係や経済的関係、文化的関係を問わず日本とブラジルの交流を深める結果をもたらし、その距離と反比例して両国の関係は緊密なものとなった。

また、日本人移民が持ち込んだ日本文化の多くが、日系ブラジル人のブラジル社会への同化とともにブラジル社会に深く根付くこととなり、現在は醤油寿司日本茶をはじめとする食文化だけでなく、柔道空手剣道といった日本のスポーツもブラジルで広く親しまれている。また、サッカーブラジリアン柔術ブラジル音楽の技術の取得などを目的とした日本からブラジルへの留学生も増えており、日系ブラジル人がその受け入れ先となるケースも増えている。

最初の正式移民がブラジルに渡って100年を超えた現在は、日系ブラジル人6世も誕生した他、日系人以外のブラジル人と結婚するケースも増え、150万人を超える日系ブラジル人(その約半分はサンパウロ州に在住している)は完全にブラジル社会に同化し、多民族国家であるブラジル社会に大きな存在感を示し続けている。

「コロニア語」

日本語で基礎教育を受け、日常生活において日本語を中心に話す日本人移民1世と、ポルトガル語で基礎教育を受け、ポルトガル語を中心に話す日系ブラジル人2世や3世(とそれ以降の世代)との間のコミュニケーション手段として、日本語とポルトガル語を織り交ぜた「コロニア語」が、ブラジルの日本人社会で広く使用されるようになった。

「コロニア語」は、日本人移民1世世代の減少や日系ブラジル人のブラジル社会への同化が進んだ現在においても、日系ブラジル人社会に深く根付いており、さらに、日系ブラジル人の日本への「出稼ぎ」の増加(詳細は後述)を受けて、新たなボキャブラリーが追加されるなど、新たな進化を見せている。

日本での問題

子弟の就学問題

日本公立学校外国人学齢期子弟の受入れを行なっているものの、それら子弟は日本語が話せない者が多く、両親も教諭との日本語での十分なコミュニケーションがとれないケースもある。また、公立学校側もブラジルの習慣を熟知しポルトガル語を使って学校生活をフォローできる人材が少ない またブラジルの学校と日本の学校のカリキュラムの違いなどの理由から、日本の学校に馴染めず不就学となるケースが多い。[8][9]

日本国内にはブラジル政府が認可するブラジル人学校も存在するが、それらの学校はブラジル人向けのナショナルスクール扱いであり、日本文部科学省の学習指導要領に沿った教育を行わないことから、日本の学校教育法に基づく学校制度においては「各種学校」扱いとなる。このため、文部科学省からの各種支援がない他、日本の小学校中学校高等学校の卒業資格は得ることができない。さらにこれらの学校は学費がとても高額である。一月数万円は当たり前の世界で、両親は子供を学校に通わせたくてもできないケースが数多くあるという。また両親は子供を日本の学校の教育カリキュラムがブラジルの学校とあまりに違うため日本の学校に通わせたくないと思うケースもこれまた多い なおブラジル本国からブラジル学校への支援は図書の寄贈だけである。

2000年頃から、こうした若者の一部が疎外感を求心力に集結し、非行にはしるケースが見られるようになってきた。[10][11]これらを受け、自治体においてはブラジル人教員の採用、不就学児童生徒の実態調査、NPOを活用した教育機会の提供等、教育対策が徐々に進められてはいるが、在日ブラジル人には日本の住民票に当たるものが無く さらに条件の良い職場を求めて日本国内を転々とする親側の事情もあり、満足の行く対応は難しい。

また2008年秋の世界的な経済危機などにより日系ブラジル人たちか勤めていた会社でいわゆる「派遣切り」にあい、子供の就学費用を払えず、やむなくブラジル学校を退学するケースが数多く出ているという。彼らはブラジルに帰国したり、日本の学校に転校したりしているという。これらの事例は岐阜県美濃加茂市など日系ブラジル人が数多く暮らしてる所で起きていて社会問題化しているという。[12]

差別

複数の人種や民族、文化的背景を持つ者が集まったコミュニティでは、無知や偏見、無理解を背景にした差別は付き物だが、日本にルーツを持つ上、日本においては比較的好感度の高いブラジルから来たとは言え、日本に在住する日系ブラジル人も差別と無縁ではない。

2006年4月、静岡県袋井市で日系ブラジル人3世の男性工員が新居用の土地を購入しようとしたところ、その地域の12世帯で作る長溝自治会がブラジル人の転入阻止を決定、不動産業者から土地売買の仲介を受けられなくなってしまった[13]。長溝自治会の住民は、「在日ブラジル人の犯罪が多いため何か起きたら怖い」と話していたという。前述の在日ブラジル人の犯罪が差別に繋がっている実態が明らかとなった。この男性は、特に犯罪歴はない普通の在日ブラジル人である。

男性は静岡地方法務局袋井支局に人権侵害と訴えた。袋井支局は訴えを認め、阻止行為を「人権侵犯」にあたるとして住民らにやめるよう「説示」する事態となった。しかし結局、男性は市内の別の場所に土地を購入した。

日本国内での犯罪

警察庁2005年に発表した統計によると、2004年度に検挙されたブラジル国籍者は1064人であった。外国人犯罪者の国外逃亡の件数は、1位の中華人民共和国(281人)、2位のアメリカ(135人)に次いで3位(86人)である。

2005年度には静岡県湖西市で2歳の女児を交通事故で死亡させた日系ブラジル人が一家で国外へ逃亡するという事件を日本国内でも大きく報じられた。女児の遺族は、「日本に戻って裁判を受けるべきだ」と強く批判している。しかし日本とブラジルには犯罪人引き渡し条約が締結されておらず、日本で犯罪を犯した日系ブラジル人が国外へ逃亡すると、日本の警察は手が出せなくなる。例え逮捕されても、日本とブラジルの法体系の違いから、日本では考えられない軽微な罪で終わるケースがあり、遺族が泣き寝入りしてしまう状況が後を絶たない。

著名な日系ブラジル人

1世

  • マナブ間部 (Manabu Mabe) - ブラジルの画家。熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)出身。
  • 上原幸啓 - サンパウロ大学工学部教授(水力学)イタイプダムを初めとするブラジルの多くのダム中華人民共和国三峡ダムの建設に参画し、「川を手なずける人」の異名を持つ) (pt)
  • 内藤克俊 - 1924年パリオリンピック レスリング フリースタイル銅メダル)
  • トミエ・オオタケ(Tomie Ohtake(大竹富江)1914-) - 抽象画家、造形作家。京都出身。23歳で渡伯。すぐに結婚。40歳から画家として出発。現在ではブラジル現代アートの巨匠と目される。地下鉄、道路、公会堂など公共の場に巨大なオブジェクトが飾られている。2001年にはサンパウロに大竹富江文化センターを創設。2008年には「日本人移民100周年事業」として、サンパウロのグアルーリョス国際空港に巨大なモニュメントを創作。90歳を過ぎても元気に創作を続けている。
  • 前田光世柔道家。ブラジルに帰化した。

2世(含準2世)

準2世とは幼少時に家族に連れられてブラジルに渡り、ブラジルの文化的影響をより強く受けている者を意味する。正式な定義はないが、大体、10歳以下で渡伯し、国籍もブラジルに帰化している者を指す場合が多い。最終的には、1世か準2世かは、当人の意識の問題と見られる。

3世

不明

 


 

 
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