日本が寄り添った国づくり

 

                                眞砂 睦

                                  

 1895年に日本とブラジルの外交関係が樹立され、今年で120年を迎えた。10月下旬、ブラジル政府の招待で秋篠宮ご夫妻が訪伯され、連邦下院議院での記念式典にご出席された.その前後に日系人が多く住んでいる10の州をご訪問。和歌山県ゆかりの松原入植地のある南マットグロッソ州では、初めて日本の皇室が訪問されるとあって、記念式典には州の要人をはじめ1200人を超す人々が集まったそうだ。
 150万人と言われる日系人がかすがいとなって、両国は親密な関係を育んできた。なかでも戦後始まった工業化の時代には、日本は技術の伝授と人材育成の両面で、この国の基幹産業の育成という大事業に貢献した。
 1956年に打ち出された工業化政策に応じて1959年、石川島重工業(当時)がリオに南米初の大型造船所(現地法人名・イシブラス)を建設したのが嚆矢となった。現地には満足な下請け企業も熟練工も居ない時代、手取り足取りの社員教育を徹底し、操業にこぎつけた。
今もリオ市民は敬意をこめて「イシブラス学校」と呼んでいる。残念なことに、1980年代のインフレで経営が行き詰まり、石川島は撤退を余儀なくされたが、熱心に育てた人材と技術を残した。この国の近代的な造船業はイシブラスが根付かせたのだ。
続いて八幡製鉄(当時)を中心とする日本の製鉄連合がブラジル鉄鋼公社と組んで、内陸部のミナス州で高炉一貫製鉄所(合弁会社名・ウジミナス)の建設に入る。建設地は初歩的なインフラどころか、近くに人家もない無人の荒野。それでも日本側は最新鋭の技術を投入して、素人集団を徹底的に教育。1965年、10年がかりで操業にこぎつけた。
今では高級鉄板など先端技術を誇る製鉄所として名をはせている。そのうえ、ここで育った人材が各地に散って、後のこの国の製鉄産業発展の礎にもなっている。
次が農業。国際協力機構(JICA)を窓口とする日本の官民がブラジル農務省と組んで、1979年から20年がかりで、国土中央部のセラードと呼ばれる不毛の半乾燥地帯を農地に変えた。土壌の改良や作物の品種改良を行って耕作地としての土台を作り、そこに民間農業者の進出を促して、日本国土の5倍という大穀倉地帯を拓いたのだ。
なかでも亜熱帯気候に適応させた大豆は、今では米国を抜いて年間6千万トンの輸出商品に成長している。この事業で両国が果たした人類への貢献ははかり知れない。
必要に迫られてとはいえ、日本は時には採算を度外視してまで人材育成に努めた。事業も国づくりも人で決まる。ブラジルは工業化の初動期に、日本という格好の相棒と手を組んだ。日本は広大な国土に「教育を尊ぶ文化」の「種をまく人」となったのだ。  (了) (紀伊民報より転載)

 
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