【ニッポン歴史探訪】江戸の司法・行政

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 江戸は、武家地が約60% 寺社地が約20% 町人地が約20%を占めたといわれます。
20% の町人地を管轄して行政・警察・裁判の役割を担ったのは、2人の 町奉行(まちぶぎょう) でした。一人は、南町奉行 (現在の有楽町マリオンの位置が本拠地)ともう一人は、北町奉行 (現在の八重洲口北側が本拠地)でした。有名な奉行には、"遠山の金さん"こと遠山金四郎と八代将軍吉宗(…よしむね)に用いれられた大岡忠相(おおおかただすけ) とがいました。各奉行 の下に役人である  与力 (よりき)・同心(どうしん)   が配属され、町人身分の目明し  (めあかし    時には岡引(おかっぴき)   と呼ばれました)  たちが彼らの手足となって働きました。捕物道具の代表的なものは与力・同心が持つ十手(じって)や長い柄(え) の突棒(つくぼう) などでした。


 与力・同心は八丁掘(はっちょうぼり) に組屋敷を与えられたため、「八丁掘」というと"町奉行所役人" のことを意味しました。町奉行所には、白州(しらす) という白い砂利が敷かれた場所があり、そこで容疑者を取り調べました。大岡忠相が最上段の奉行席から白州に座る容疑者たちを見下ろして、人情味溢れる判定を下す様子は、 "大岡裁き"と呼ばれ、芝居などで扱われ、庶民の喝采を今日に至るも浴びています。罪人は罪の軽重によって、所払い(ところばらい  江戸からの追放など)、人足寄場 (にんそくよせば  石川島の更生・職業訓練の施設) 送り、島送り(八丈島などへ) を命じられ、放火など重い罰なら市中引き廻しの上、火あぶりの刑に処せられました。未決囚は、伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき 中央区十思公園 ) に留置されました。また、刑場 は、鈴ヶ森(すずがもり  品川区南大井2丁目付近) と千住小塚原(こづかっぱら 荒川区南千住5~6丁目一帯 ) の二つが並び称せられました。

 

 町奉行たちは、江戸の行政にも携わりました。庶民の協力も受けて実効性のある行政を実施した結果 、江戸時代約270年が後世「泰平の世」と呼ばれるのは、行政が何はともあれ優れていたおかげと言えそうです。代表例は、一町医者の目安箱(めやすばこ)への投書で、奉行の大岡が社会的弱者のために小石川養成所(こいしがわようじょうしょ) を造ることに力を尽くしました。       以上 黒瀬宏洋記

参考  "徳川吉宗とその時代" 大石慎三郎
         "泰平のしくみ" 藤田覚 

 
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