【ニッポン歴史探訪】江戸の行楽地(2)

 

 庶民の行楽地である寺社として泉岳寺、寛永寺、増上寺 も忘れられません。泉岳寺(せんがくじ)には、赤穂四十七士(あこうしじゅうしちし)と彼らの元藩主夫妻の墓所があり、赤穂浪士びいきの江戸庶民が参詣しました。赤穂四十七士の話は概略次の通りです。吉良上野介(きら こうずけのすけ)は、赤穂(あこう)藩主浅野長矩(あさの ながのり)に仕事の上で意地悪をしたあげく、1702年、江戸城のなかで彼から刀で斬りつけられ怪我をしました。主君は直ぐ切腹を命ぜられたのに、上野介は殆んど咎め(とがめ)なしでした。「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)  けんかはいずれも罰する」が当時のルールでしたので、それを不服として元家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をリーダーとする元藩士グループが用意周到に吉良邸を襲い、吉良の首をとり、主君の仇(かたき)をうちました。一般庶民は拍手喝采(はくしゅかっさい)です。しかし赤穂義士は、庶民の命乞いもかなわず、全員切腹して果てました。

  寛永寺(かんえいじ)と増上寺(ぞうじょうじ) は、いずれも徳川家の菩提寺(ぼだいじ)で 歴代将軍の墓地となっています。寛永寺は、幕府体制を守ろうとする彰義隊(しょうぎたい)がそこに立て籠もり新政府軍に対して抵抗しましたが、1868年 無駄に終わりました。増上寺は勝運・災難除けのご本尊が庶民から崇められました。

 

  生活に余裕が出た庶民の中には、相模(さがみ 今の神奈川県)にある大山(おおやま)参りをして、そのついでに弁財天(べんざいてん  特に金運をもたらす女神として有名) の祠(ほこら)がある江ノ島 (えのしま)に足を伸ばす人たちもいました。大山には、江戸の庶民は大山街道 (現在の国道246号線 )を歩いて出かけました。均整のとれた形をした大山は、雨乞いの神を祀る阿夫利神社(あふりじんじゃ)があり、相模湾で漁をする漁師たちの守り神でした。また、大山は漁師たちにとり格好の目標で山に懸かる雲の様子から天候の変化を知りました。

 

   同じように、信仰や行楽のために、八王子にある高尾山 (たかおさん  薬王院がある)、多摩川上流の御岳山 (みたけさん  武蔵御嶽神社がある)、下総 (しもうさ  今の千葉県) にある成田山新勝寺(なりたやましんしょうじ   成田不動とも言う)、「牛に引かれて善光寺参り」で知られる長野の善光寺(ぜんこうじ )、日光街道終点の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)などを訪ねました。江戸の鬼門(きもん  北東の方角は鬼が出入りするとして忌み嫌われました) の方角にある東照宮は祭神の徳川家康の力を得て江戸を見守っているようでした。

 

  そして何よりも、一生に一度は伊勢 (いせ  今の三重県) にある伊勢神宮 (いせじんぐう) を参拝すること、いわゆる「伊勢参り (いせまいり)」が江戸に限らず全国の庶民たちの大きな夢でした。        以上  黒瀬記
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