日本で働いているブラジルからの皆様へ


  最近私は、加藤仁紀様の書かれた記事から今の日本には在日ブラジル人等を支援する組織があって、その運動が盛んに行われている事を知つて大変心強く思いました。

   私は所謂ブラジルの日本人二世ではありません。然し八歳の時父母につれられてこのブラジルへ移って来てより既に八十年近く経ちましたので大体二世達の気持ちが解る積もりですので、私の思っていることを今ここで述べて見たいと思います。

   実は私は二十数年前、六十歳の時、ガードマン(街頭警備員)として八ケ月間日本へ出稼ぎに行きましたので、その時感じたことを今ここで述べます。私の日本行きは大分前から思っていたことなのですが、最近の日本経済の余りの急激な発展に 対しての私の疑問を解決せんが為でした。私には、当時このブラジルが年百パーセント以上のインフレーションで苦しんで居る時、日本が僅か戦後三十年でかくも偉大な経済発展を遂げたことは真に不思議な事でした。それを納得させるために私は直接日本へ行って調べて見ようと思ったのでした。私は日本語が話せましたので、表面的には日本人でしたが、それでも内地の人にとっては何となく違和感を覚えたらしく,叉出稼ぎの一人である事が判ってからは彼等からは多少違った扱いを受けたように思います。大体日本の人は外国人、特に西洋人に対しては丁寧で腰が低いです。それでいて同じ外国人たるブラジルからの出稼ぎにはその扱いに差をつけるのです。然しこれは何も異人種、同人種に関係なく、只日本の人が古来から持っている因習である強い階級意識から来たものであって、己より階級が上であると思う者には遜り、下であると思う者には蔑む習慣から来たものと思われます. 従つてブラジルからの出稼ぎに対しての或る種の偏見は、そういった内地人の一般傾向から来たもので、決して個人的なものではなく、単に出稼ぎと云う比較的低い社会階級の者に対する態度だからです。

   そう云つた訳なので、日本で働くブラジルの皆様、決して気にする事はありません。常に堂々と確固たる精神を持ち、叉或る程度の余裕を持って働いて下さい。何となれば、日本と言う国は、なんと言つてもブラジルと違って狭苦しく、総べてに規則、しきたりが多く、人の気持ちに余裕が無い所です。それからもう一つ、日本の人は兎角謝ると言う事に大変値打ちを与えるもので、大抵の場合理屈に合う事なら謝罪すれば快く許して呉れるものです。皆様も若し自分の落ち度で間違って居たことが判った時は気持ち良く謝ってください。それだけの値打ちが有るものです。

   兎に角今の所,未だ日本は一等国です。物心共に学ぶ事が沢山あります。皆様も日本で何か良いと思ったことはどしどしそれを覚えた上、懐かしい故国たるブラジルへの帰国の際貴重な土産として持って帰って来て下さい。              ( 2012年07月10日   岡井二郎  )

 

  【  岡井二郎  の プロフィール 】 

 alt 二郎は1925年、桜で有名な吉野山の麓で生まれた。然し戸籍は大阪府になっている。八歳の時家族と共にブラジルへ移転することになった。1933年10月05日、リオデジャネイロ丸にてサントス港に到着する。自由主義の父が当時の日本での軍部の跳梁に対して嫌悪を覚えた挙句の外国への逃避であった。従って当時の大部分の人がコーヒ園での契約移民であったが、彼一家は日本滞在中から殖民会社に属するブラジルのサンパウロ市から700KM 離れたチエテ移住地(現ペレイラ バレット)の土地を求めて、自由移民として渡伯した。農作物は主として綿であったが、都会育ちで農業に経験の無い父にはブラジル奥地での百姓は無理であって二、三年のうちに貧乏のどん底に陥ってしまい、当時十一歳の二郎まで畑仕事をせねばならなくなつた。十五歳でやつと夜学の葡語初等科を卒業する事が出来た。日本語の方は最初は父に教わつたが、後には日本から早稲田の中学講義録を取り寄せて勉強した。戦争後母が亡くなると,百姓を止めて隣の牛乳屋を買い取ってペレイラバレットで牛乳を配達することになった。二十五歳で現在の妻と結婚してこの国の食生活の必需品の一つであるマンジョオカ(芋の一種) 粉の製造を始めた。その設備資金としてブラジル銀行から五年間での償却と言う融資を受けた。それから十七年後,マンジョオカ粉の極度の値下がり及びその他の原因で製粉工場を閉鎖する。然し四人の子供の学資のことなどを考えて居た所,丁度農学士だつた義兄の薦めもあって職業を測量業に変更する決心をする。二郎は二年間この義兄と共に実地に仕事をして測量を覚えたが、問題はC.R.E.A. (技術審査院)の許可を取ることであった。それにはその筋の高等専門学校を卒業せねばならなかった。二郎は困った。然し断固とした決心をしてそれに対抗することになった。即ち、当時の速成中学の課程を僅かに五ヶ月で修了し、アラサツーバ市にあった道路専門学校へ入学する為に家族共々その町へ引っ越した。二郎は当時十六歳になった彼の長男と共にその学校で机を並べて勉強した。三年後その学校を卒業すると共にサンパウロへ引越し測量事務所を開き、宅地造成の仕事を請け負いで引き受けたりなどした。二十年後、二郎はもう四人の子供の養育から開放され、ほつとすると、今度は日本の急激な経済発展に対しての個人的な疑問に気がついた。彼には当時このブラジルが年に百パーセント以上のインフレーションに苦しんでいたにも拘わらず、日本では戦後僅か三十数年で世界で一、二と言われる経済大国に数えられる程になったのが不思議であった。二郎はこの疑問を解く為に、直接日本へ出掛けて調べて見ようと思った。八ヶ月の滞在の末納得したことは何も奇異な事ではなかった。即ち、日本の急激な経済発展の元はと言えばやはり国民全体の努力の結果であって、日本人の美点たる勤勉、正直、努力、責任感などが直接日本の生産活動にマッチしたのがその原因とも言えた。二郎はブラジルへ帰ってからも測量の仕事を続けたが、ある日の仕事中,どうした訳か自ら後ろへ強く転倒し脊髄を損傷、手術と四十日の入院の結果、歩行不自由の体になって仕事は中止。現在は自らの無聊を慰めると同時に、何かの為になるかとも思い、ボランテーア式に翻訳を心掛けている。 ( 2,012年07月10日   岡井二郎)
   

 
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