【ニッポン歴史探訪】江戸城

江戸城 (徳川幕府時代)
家康は、秀吉により長年の本拠地(三河・駿河)から後北条の旧支配地(関東)へ領地を替えられましたが、不満も言わず、江戸城を新たな根拠地とする街づくりに取り組み始めました。彼が、「関ヶ原の戦い」に勝利し、1603年、征夷大将軍に任命されると、江戸城に江戸幕府を開き、街づくりを本格化させました。城の周りに’の’の字形に壕を築き、徳川への忠誠度などを考慮して、壕沿いに大名達の屋敷地を配置しました。城の東側低地部分は町民の居住区とし、「日本橋」の河岸には町民たちの胃袋を満たす魚市場(いまは築地(つきぢ)に移転)を設けました。また、「日本橋」界隈には呉服を始め各種の品物を扱う商店が軒を並べ、とても賑わいました。呉服屋のいくつかはデパートとして今でも続いています。「日本橋」は、また、江戸からスタートする主な街道(東海道、中山道(なかせんどう)、奥州街道など)の起点になっています。各街道には旅人のための宿場が発達しました。
さらに、増加する人口に供給する飲料水確保が重要問題となりました。幕府は、庄右衛門・清右衛門(しょううえもん・せいうえもん。後に玉川兄弟と呼ばれます)に江戸の40数キロ西方を流れる多摩川の水を江戸まで引き込むように命じました。兄弟は羽村に取水用の堰(せき)を造り、すべて露天掘りで四谷大木戸までの用水路ー「玉川上水」ーを工事開始からわずか半年の期間で完成させました。1653年11月のことでした。
このようにして、江戸は18世紀初頭にはロンドンやパリを越える人口100万の大都会となりました。
江戸城について次の2点を補足しておきます。
(1)1657年、江戸の町々を襲った明暦の大火で江戸城も被害を受けました。天守閣も焼失しました。天守閣はその後再建されていません。
(2)幕末、官軍(薩長中心)が旧幕府軍を追って江戸に近づきました。旧幕府内の一部徹底抗戦派が不穏な動きをしています。官軍も江戸総攻撃を辞さぬ姿勢です。このままでは江戸は火の海となりそうです。そんな1868年、高輪の薩摩藩邸で、勝海舟(旧幕府側陸軍総裁)と西郷隆盛(官軍総大将)が話し合い、江戸城無血開城で事態を収拾することにしました。お陰で、無傷の江戸城は皇居に受け継がれ、「江戸」は「東京」と名を変え、日本の首都として政治・経済の中心地になり、現在に至っています。
以上 黒瀬宏洋記(2012/1/31)
 江戸城 (徳川幕府時代)
家康は、秀吉により長年の本拠地(三河・駿河)から後北条の旧支配地(関東)へ領地を替えられましたが、不満も言わず、江戸城を新たな根拠地とする街づくりに取り組み始めました。彼が、「関ヶ原の戦い」に勝利し、1603年、征夷大将軍に任命されると、江戸城に江戸幕府を開き、街づくりを本格化させました。城の周りに’の’の字形に壕を築き、徳川への忠誠度などを考慮して、壕沿いに大名達の屋敷地を配置しました。城の東側低地部分は町民の居住区とし、「日本橋」の河岸には町民たちの胃袋を満たす魚市場(いまは築地(つきぢ)に移転)を設けました。また、「日本橋」界隈には呉服を始め各種の品物を扱う商店が軒を並べ、とても賑わいました。呉服屋のいくつかはデパートとして今でも続いています。「日本橋」は、また、江戸からスタートする主な街道(東海道、中山道(なかせんどう)、奥州街道など)の起点になっています。各街道には旅人のための宿場が発達しました。
さらに、増加する人口に供給する飲料水確保が重要問題となりました。幕府は、庄右衛門・清右衛門(しょううえもん・せいうえもん。後に玉川兄弟と呼ばれます)に江戸の40数キロ西方を流れる多摩川の水を江戸まで引き込むように命じました。兄弟は羽村に取水用の堰(せき)を造り、すべて露天掘りで四谷大木戸までの用水路ー「玉川上水」ーを工事開始からわずか半年の期間で完成させました。1653年11月のことでした。
このようにして、江戸は18世紀初頭にはロンドンやパリを越える人口100万の大都会となりました。
江戸城について次の2点を補足しておきます。
(1)1657年、江戸の町々を襲った明暦の大火で江戸城も被害を受けました。天守閣も焼失しました。天守閣はその後再建されていません。
(2)幕末、官軍(薩長中心)が旧幕府軍を追って江戸に近づきました。旧幕府内の一部徹底抗戦派が不穏な動きをしています。官軍も江戸総攻撃を辞さぬ姿勢です。このままでは江戸は火の海となりそうです。そんな1868年、高輪の薩摩藩邸で、勝海舟(旧幕府側陸軍総裁)と西郷隆盛(官軍総大将)が話し合い、江戸城無血開城で事態を収拾することにしました。お陰で、無傷の江戸城は皇居に受け継がれ、「江戸」は「東京」と名を変え、日本の首都として政治・経済の中心地になり、現在に至っています。
以上 黒瀬宏洋記(2012/1/31)
江戸城 (徳川幕府時代)

 家康は、秀吉により長年の本拠地(三河・駿河)から後北条の旧支配地(関東)へ領地を替えられましたが、不満も言わず、江戸城を新たな根拠地とする街づくりに取り組み始めました。彼が、「関ヶ原の戦い」に勝利し、1603年、征夷大将軍に任命されると、江戸城に江戸幕府を開き、街づくりを本格化させました。城の周りに’の’の字形に壕を築き、徳川への忠誠度などを考慮して、壕沿いに大名達の屋敷地を配置しました。城の東側低地部分は町民の居住区とし、「日本橋」の河岸には町民たちの胃袋を満たす魚市場(いまは築地(つきぢ)に移転)を設けました。また、「日本橋」界隈には呉服を始め各種の品物を扱う商店が軒を並べ、とても賑わいました。呉服屋のいくつかはデパートとして今でも続いています。「日本橋」は、また、江戸からスタートする主な街道(東海道、中山道(なかせんどう)、奥州街道など)の起点になっています。各街道には旅人のための宿場が発達しました。
さらに、増加する人口に供給する飲料水確保が重要問題となりました。幕府は、庄右衛門・清右衛門(しょううえもん・せいうえもん。後に玉川兄弟と呼ばれます)に江戸の40数キロ西方を流れる多摩川の水を江戸まで引き込むように命じました。兄弟は羽村に取水用の堰(せき)を造り、すべて露天掘りで四谷大木戸までの用水路ー「玉川上水」ーを工事開始からわずか半年の期間で完成させました。1653年11月のことでした。
このようにして、江戸は18世紀初頭にはロンドンやパリを越える人口100万の大都会となりました。

 江戸城について次の2点を補足しておきます。
(1)1657年、江戸の町々を襲った明暦の大火で江戸城も被害を受けました。天守閣も焼失しました。天守閣はその後再建されていません。

 (2)幕末、官軍(薩長中心)が旧幕府軍を追って江戸に近づきました。旧幕府内の一部徹底抗戦派が不穏な動きをしています。官軍も江戸総攻撃を辞さぬ姿勢です。このままでは江戸は火の海となりそうです。そんな1868年、高輪の薩摩藩邸で、勝海舟(旧幕府側陸軍総裁)と西郷隆盛(官軍総大将)が話し合い、江戸城無血開城で事態を収拾することにしました。お陰で、無傷の江戸城は皇居に受け継がれ、「江戸」は「東京」と名を変え、日本の首都として政治・経済の中心地になり、現在に至っています。
以上 黒瀬宏洋記(2012/1/31)

 

 
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