やさしい日本史(第3回)

 (       ((お願い)例えば、備中高松城 の数列(34.6923681 , 133.8222313 は、それをコピーして、Google Earthジャンプのウィンドウに貼り付けて、ご利用ください。)

 

秀吉のお話のつづきです。
1582年、「本能寺の変」が起きたときには、秀吉は毛利側の「備中高松城」(びっちゅうたかまつじょう。34.6923681 , 133.8222313 )を水攻めしていましたが、大急ぎ毛利輝元(もうり てるもと)と仲直りし、戦場から引き返してきました。そして、明智光秀(あけち みつひで)を山崎の合戦(やまさきのかっせん 34.8926633 , 135.6828341 で破り、みごと信長のかたきをとりました。これで信長が死んだ後の天下人(てんかびと)レースで秀吉は断然優位になります。果たして、並み居る先輩、信長の遺児たちをつぎつぎに退(しりぞ)けてゆきます。1583年、もっとも先輩格の柴田勝家(しばた かついえ)を賎ヶ岳(しずがだけ 35.5049809 , 136.1933899 )で破ります。このとき、勝家と再婚したお市(信長の妹)は、娘3人を秀吉に預けて、自分は
福井北の庄城(36.0602491 , 136.2195414 )で夫と自害する道を選びます。つづいて、信長の次男である織田信雄(おだ のぶかつ)および徳川家康の連合軍と小牧・長久手(こまき 35.2923251 , 136.9135094 ・ながくて 35.1731067 , 137.0480061 )で戦いますが、なかなか勝敗は決まりません。しかし、1584年、信雄が秀吉との単独講和に応じたため、ついに家康も引き下がりました。そのほか、秀吉は、1585年、信長が手を焼いていた雑賀(さいか)・根来(ねごろ 34.2870772, 135.3168869 )衆を平定し、 長宗我部(ちょうそかべ)氏が支配を広げていた四国もそっくり秀吉に服従させます。朝廷からもらった関白(かんぱく)、太政大臣(だじょうだいじん) のポストも、秀吉は、天下平定の大義名分に うまく利用します。しかも、秀吉は、家康には妹や実母を人質に出すなど最大限の気を使いながら、日本各地から集まった殿様たちの前で、家康に自分への忠誠を誓わせます。その後は、1587年、島津氏のいる 九州を手際よく平定したあと、
1590年には、関東で勢力を伸ばす北条氏の根城である小田原城を攻め落とし、その勢いで奥州を平定し、全国統一を完成します。
 こうして日本国の頂点に立った秀吉ですが、その頃から無謀な朝鮮出兵を行うなど独裁者の横暴さが目立つようになります。特に、1593年、信長の姪(めい)である淀君(よどぎみ、幼名は茶茶)との間に秀頼(ひでより)が生まれると、自分の子供可愛さに、それまで自分の跡継ぎとして引き立ててきた甥の秀次(ひでつぐ)を切腹させ、その妻子も惨殺する有様です。こんな秀吉も、
1598年、家康など五大老たちに秀頼を自分の後継者にするよう頼んで、63歳で他界します。しかし、彼の遺志に反して、1600年の関ヶ原の戦いを制した家康は江戸城を本拠とする徳川幕府を開きます。最後まで家康への服従を拒絶した 淀君・秀頼親子は、1615年、前年冬に続く大阪夏の陣で家康軍に敗れ大阪城(34.6870751 , 135.5259705 )で自害します。こうして豊臣家は滅亡しました。 

 なお、「鳴かぬなら 鳴かして見せよう ホトトギス 」という句が、秀吉の性格をよく表すといわれます。信長は、下線部分が、殺してしまえ でした。家康の場合は、鳴くまで待とう になります。3人の性格をよく言い当てていると思いますが、あなたはどう思いますか?
                            終わり 黒瀬記(2011/7/29

 

 

      

 
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