日伯連帯研究所

日本人!初めて社交ダンスを踊る

筆者:大藪 宏

鹿鳴館時代の前には?
 
 日本人の社交ダンス事始めとなると、明治十六年(1883)に開館した迎賓館的社交施設「鹿鳴館」で、華やかに行われた国策としての舞踏会を誰しも思い浮かべることでしょう。
 当時の日本人の貴顕・貴婦人方は、ほとんど西洋式のダンスを踊れませんでしたが、ほどなく外国人の教師が雇われて、鹿鳴館でダンスの講習会が行われ、それぞれに腕前を上げていくようになりました。

 けれどもそれ以前の明治四年に、欧化政策の一環として、津田梅子(のちに津田塾を創立)、山川捨松(のち大山陸軍卿夫人)、永井繁子(のち海軍将校夫 人)が、海外留学生として派遣されていましたが、この三人の少女らが、米国の舞踏会で社交ダンスを覚えてきました。特に捨松は踊りの名手として、鹿鳴館で の講習会で、アシスタントを務めました。
 もっと以前の幕末期にも、パリ万国博渡欧幕府使節団や、咸臨丸(艦長勝海舟)で大平洋の荒波を乗りきった、日米修好条約批准使節団(福沢諭吉も通訳とし て乗船)の面々は、それぞれ現地で舞踏会に招かれていました。けれども使節の武士たちのほとんどは、社交ダンスを、「公衆の面前で男女が手を取り抱き合う とは、異国の蛮習なり」とみなしていましたので、彼らがダンスを習ったり、それに挑戦したとは考えられません。

 西洋学の第一人者で、西洋の事情通であった福沢諭吉でさえも、「妙な風をして、男女が座敷(舞踏室)中を飛び回るので、おかしくてたまらない」 と、その時の印象を書き記しているほどです。

 それではそれ以前の鎖国時代(江戸時代)にダンスはとうてい無理だったのでしょうか?
 当時の西洋への窓口、長崎出島には、オランダの商館が置かれていました。もしそこでダンスが行われていれば、出入りの日本人がオランダ人に勧められて、ダンスを習った可能性があったかもしれません。

 けれども答えはやはり「ノー」のようです。
 幕府の定めによって、オランダから来日した駐在員は男性に限られていたので(単身赴任)、舞踏会は開かれませんでした。
 もっと遡って、戦国時代末期、あるいは安土桃山時代を考えてみましょう。
 この時代には、ヨーロッパ人が続々と日本へ来訪してきましたが、彼らはイエズス会の宣教師であり、聖職者であったので、社交ダンスには無縁の人々でした。
 けれどもここで、注目すべき壮挙がありました。
 この時代に九州の切支丹大名が、日本人の少年四人を、使節としてローマに派遣しているのです(天正遣欧使節)。
 彼らこそが、ローマで、あるいはローマでなくてもイタリアのどこかの都市で、舞踏会に招かれて、社交ダンスを踊る機会を得てはいないでしょうか。
 もしも彼らがイタリアの地でダンスを踊ったとすれば、それは日本人として、史上初の快挙となります。 となると、ここはぜひとも彼ら四人の行動を、追跡していく必要があります。


 ルネサンスの華 天正少年使節の華麗なダンス
                                        
 天正十年(1582)一月、イエズス会巡察師ヴァリニャーノの企画のもと、島原のセミナリヨ生徒の中から選ばれた四少年が、ローマに向けて長崎を出帆し た。遣欧(けんおうルビ)使節の四少年とは、首席正使に伊東マンショ、次席に千々石(ちじわルビ)ミゲル、副使に原マルチノと中浦ジュリアンであった。  一行はピサで、 大公妃ビアンカ主催の夜会に招待されることに…

 首席のマンショは、大公と公妃の間の最上席に着座し、残る三人の少年は、公の弟君、ドン・ピエトロと一緒の席に着いた。燭台には無数のローソクが光り輝 き、要所には炬灯(たいまつルビ)が燃えて昼をもあざむくばかり。その光を受けて輝く大小の銀器には、山海の珍味がこぼれるほどに盛られ、運ばれてくる。

いよいよ舞踏会が始まった。

 この場面は、『日本使節見聞対話録』(ヴァリニャーノ著。ラテン語訳デ・サンデ)と、神戸女学院音楽部出身の、ルネサンス舞踊研究家原田宿命(さだめルビ)先生の著書、『ルネサンス舞踊紀行 イタリア』の助けを借りて再現しよう。
 
  手を取り合った大公と公妃のペアを先頭に、着飾った高貴な人々が、控えの間に行列を作っている。頃は良しと、トランペットを中心にした金管楽器群が、ファンファーレを高らかに鳴り渡らせた。
 煌灯(かがりびルビ)の中を、静々とそしておごそかに、リベレンツァ(ご挨拶)をしながら、そして踊りながら、高貴な方々が大広間に入場してくる。壮麗で優雅な宮廷ダンスの定番、バス・ダンス(Basse Dense)が始まった。
 少年使節団には、着飾った貴顕・淑女たちが千変万化する様は、この世のものとも思われなかったことだろう。
 この荘重なダンスが一段落すると、今宵の舞踏会のホスト、大公の令弟が、公妃ビアンカをダンス

に誘った。そこで踊られたのはパヴァーヌ。
「S(1歩進み足を合わせる)次S(1歩進み足を合わせる) D(3歩進み足を合わせる) と進んで行くが、ときに後退が入る」 
 この舞踏会では、二人のダンスが終わると、申込者の男性は去り、今度は残された女性が意中の男性にダンスを申し込む。そしてそのダンスが終わると、申込 者だった女性が去って、残された男性が次の女性に申し込む。これが尻取りゲームのように繰り返されるルールになっていた。パートナーチェンジをしながら、 一組ずつがデモンストレーション的に踊るという趣向である。    
 
ハプニング!公妃ビアンカが

 さて大公の令弟が去って、フロアに残った公妃ビアンカは、誰をお相手に選ぶのだろう。広間は静まりかえった。
 一瞬の静寂の後、ビアンカは、つかつかと伊東マンショに近づき、ダンスに誘ったのだ。人々の間にどよめきが起こり、すぐにそれは大きな拍手に変わった。
 ビアンカは使節団の主席であったマンショに、敬意を払ったのか、それともウブな異国の少年をからかってみようと思ったのか…。
  だがマンショにとって、ことはダンスを踊る、踊らない以前の、大きな問題であった。 マンショは神学校の生徒であり、将来は聖職者の道を歩むべき者である。女性とダンスをするなど、考えられない事態であった。
 けれどもここでお誘いを断れば、公妃の面目は手ひどく傷つく。困ったマンショは、引率者のメスキータ神父を振り返った。               
 神父も一瞬困った表情を見せた。マンショは若さ匂う十七歳。セクシーなビアンカの色香に惑わされ、妻帯の許されぬ聖職者への道を歩むことに、いささかの 迷いが生じたりしては、と心配したのだった。さりとて一行を歓迎し、手厚くもてなしてくれる主催者の誘いを断るのも心苦しい。神父はにっこりとうなづき、 マンショを促した。
 
  いよいよ、        
日本人による、初めての社交ダンス
                     
 が始まった。もちろんマンショは踊り方を知るよしもない。  
「ステップを全然知らないでフロアに出ちゃったので参ったよ。それに美人を前に、しかも大勢の貴人の前で踊るんだから、あたりはもう真っ白さ。といって晴 れの場で演技をするわけだから、あんまり野暮ったく見えちゃいけない。勇気を振るって、ダンスくらい知っているさという気持ちで、堂々と踊るように心がけ たよ。もちろん、ときにまちがえたり音を外すこともあったけどね」
 とは、踊り終えてのマンショの感想である。
  人々の間からざわめきが湧き上がり、それは大きな拍手に変わった。マンショが、パードレに許しを得てから舞踏の誘いに応じたと言う、良きマナーに対しての 賞賛と、はるばる異国から来たダンスを知らないはずの少年が、物怖じせず堂々と踊り通したことへの賞賛であった。   
  マンショの初陣のダンスを見て、千々石ミゲル、原マルチノらも踊りやすくなった。
 舞踏会は大成功に終わった。(イエズス会側からの報告を参考)    
 それにしても今から四百年以上も前に、日本人の少年が、ルネサンスの花開くイタリアで、宮廷ダンスをよくぞ立派に踊ってくれたものである。 ダンスを全然習ったことのないマンショが、「堂々と踊ることを心がけた」と言い切っている。ボクも胸に留めよう。

さてこのときのダンスは?

 とにかく踊り手を次々と変えて繋いでいくダンスなのだ。あまり難しいものではなく、また個人の伎倆に頼らなくてもいいステップで踊るはずだ。観察力の鋭 い伊東マンショは、最初の、公の令弟とビアンカの踊りを見て、大体の動きを読み取ったと思われる。なおも言えば、当時のダンスは、男女が深くホールドをし 合うことは無かった。手をつないでの踊りであれば、少々の間違いを犯しても、相手の足を踏むことは無いだろうし、相手の姿勢を崩してしまったり、相手の動 きを止めてしまうということも無いはずだ。上半身が堂々としていて、リベレンツァ(ご挨拶)さえしっかりできれば、ステップの多少の踏み違いなどは、あま り問題にならなかったに違いない。
  マンショの活躍で、後続のミゲルと、マルチノも自信を持った。そして中原ジュリアンは、手近なところにいた婦人(ひとルビ)に申し込んだ。だが彼女は、もうダンスを引退した老女であった。
「皆の失笑を買った」 とあるが、それは決して冷笑ではなかったろうし、その老女も、一瞬驚いた後は、うれしかったにちがない。日本と違って、老女であっても服装は華やかなので、それに惑わされたようだ。

少年使節団の末路
     

 ローマ教皇に謁見し、目的を遂げた四人は帰国の途についた。だが留守中八年の歳月は、情勢を一変させ、日本でキリスト教は国禁となっていた。
  天正十八年六月。一行は長崎へ帰還した。その半年後の十九年三月、一行は聚楽第で関白秀吉に謁見した。
  何しろ最新のヨーロッパ情報を持ち帰った貴重な人材である。秀吉はさっそく召し抱えようとする。

けれどもマンショは、「私は伴天連(神父)様に大きな恩義を受けております。今伴天連様のもとを去っては、忘恩の徒と誹(そしルビ)られることになります」
 と、きっぱり断った。付き添ってきた伴天連たちは、安堵の胸をなでおろした。
 秀吉の胸中は、ポルトガル船による南蛮貿易の利を取りたい気持と、基督教に國が乗っ取られるのではという心配との間で揺れ動く。そしてついに切支丹の追放令は強化された。
 伊東マンショは早くに病没。原マルチノも追放先のマカオで病没。千々石ミゲルは早々とキリシタで逆さ吊の刑を受け、壮絶な殉教を遂げた。地獄の苦痛のなかでジュリアンは叫んだ。
「我こそはローマを見たり」 世紀の壮挙を遂行し、日本人で初めて社交ダンスを踊った彼らの最期は悲しく痛ましかった。
                    
 

(注) 以上は雑誌『ダンスファン』に掲載されたものです。


 
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